No.0235 宗教・精神世界 『神道とは何か』 鎌田東二著(PHP新書)

2011.01.02

 『神道とは何か』鎌田東二著(PHP新書)を再読しました。

 この正月、神社に初詣に行った人も多いでしょう。言うまでもなく、神社とは神道の宗教施設です。神道は、日本人にとって、ごく身近に存在している宗教です。しかし、あらためて「神道とは何か」と問われると、よほど神道に近い人でも明確には答えにくいものです。

 神道とは何か。よく、日本固有の民族宗教であるとか、アニミズムであるとか、自然崇拝と祖先崇拝と天皇崇拝の3つの要素から成るものであるとか説明されます。 

 もちろん、それらの説明も、けっして間違いではありません。しかし、神道の持つ広大で豊かな世界を前にしては何とも物足りない感があります。

 そんな神道について、日本を代表する宗教哲学者にして神道ソングライターであり、また神主でもある著者が、すっきりとした説明をしてくれます。

 神道学者として研究人生のスタートを切った著者は、世界のあらゆる宗教や神秘主義にふれていくうちに、とらえどころのない「神道」の形を浮き彫りにしていきました。

 著者によれば、「神道」という言葉には2つの意味があるといいます。ともに「神の道」ですが、1つは、「神からの道」、もう1つは「神への道」です。英語なら、”The Way from KAMI”と”The Way to KAMI”の2つの”KAMI WAY”です。

 「神からの道」とは、永遠の宇宙進化とも宇宙的創造行為とも言えます。神道ではそれを「ムスビ(産霊)」の神あるいは力ととらえ、そのムスビの力の発現のプロセスの中に過去・現在・未来があると考えてきました。その意味では、「神からの道」とは、存在の流れであり、万物の歴史です。それは、永遠からの贈り物であり、存在世界における根源的な贈与なのです。それが神話や伝承として伝えられてきたのです。

 それに対して、もう1つの「神への道」とは、その根源的な贈与に対して心から感謝し、畏敬し、返礼していく道です。それが祈りや祭りとなります。著者は、「祈りも祭りも共にそうした根源的な贈与に対して捧げられる返礼行為であり、感謝と願いである」と本書に書いています。

 また著者は、別の著書『神道のスピリチュアリティ』(作品社)において、神道をキリスト教や仏教と比較して表現しています。

 しばしば、キリスト教は「救いの宗教」、仏教は「悟りの宗教」と類型化されます。むろん、キリスト教の中にもグノーシス主義や神秘主義などの「悟りの宗教」的な流れはあり、仏教の中にも阿弥陀仏如来の極楽浄土信仰などのような「救いの宗教」的な要素もあります。単純にそれ一色で覆われているのではありません。

 でも、その宗教の原点や原型を「救いの宗教」「悟りの宗教」として表現することは不可能ではなく、非常にわかりやすいと言えます。そして、そのような言い方で神道を表現するとしたら、「畏怖の宗教」であると著者は述べます。神道は、「救いの宗教」でもなく、「悟りの宗教」でもなく、第一義的に、「畏怖の宗教」であるというのです。

 歴史的に見れば、教派神道や神道系新宗教の中には「救いの宗教」的なものも、「悟りの宗教」的なものもあります。しかし、神道の原点や原型には厳然と、「畏怖の宗教」の原像が刻印されていると著者は主張します。

 そのことは「カミ」という言葉に端的に表れています。「カミ」という名称の語源については、「上」「隠身」「輝霊」「鏡」「火水」「噛み」など古来より諸説があるものの、定説はありません。

 でも、江戸時代の国学者である本居宣長は大著『古事記伝』で、「世の尋(つね)ならず、すぐれたる徳(こと)のありて、畏(かしこ)きもの」と「カミ」を定義しました。つまり現代の若者風に言えば、「ちょー、すごい!」「すげー、かっこいい!」「めっちゃ、きれい!」「ありえねーくらい、こわい」「ちょー、ありがたい」などの形容詞や副詞で表現される物事への総称が神なのですね。

 インディアンの信仰は神道にも明らかに通じています。著者は、次のように述べます。

 「さし昇ってくる朝日に手を合わす。森の主の住む大きな楠にも手を合わす。台風にも火山の噴火にも大地震にも、自然が与える偉大な力を感じとって手を合わす心。
 どれだけ科学技術が発達したとしても、火山の噴火や地震が起こるのをなくすことはできない。それは地球という、この自然の営みのリズムそのものの発動だからである。その地球の律動の現れに対する深い畏怖の念を、神道も、またあらゆるネイティブな文化も持っている。インディアンはそれをグレート・スピリット、自然の大霊といい、神道ではそれを八百万の神々という」

 デニス・バンクスが信じるグレート・スピリットが、わたしたち日本人にとっての八百万の神々と同じだったとは! まさに神道というのは日本だけでなく、この地球上に遍在するものなのです。かの折口信夫が太平洋戦争での敗戦時に述べた「人類教としての神道」という言葉も、おそらくはそういった意味なのでしょう。

 著者によれば、宗教にはまた、「伝え型の宗教」と「教え型の宗教」の二種があります。伝承型宗教と説教型宗教と呼んでもよいでしょう。

 仏教やキリスト教やイスラム教などの世界宗教はまた、創唱宗教でもあります。すなわち、ブッダやイエスやムハンマドといった開祖を持ちますが、神道は、いつ誰が始めたとも知れず、神話や儀礼として部族や民族の伝承の中に伝えられてきた伝承型宗教です。それは「伝承の森」とも「伝承の海」ともいえる共同性に支えられて存在してきたものであると著者は述べています。

 「畏怖の宗教」であり、「伝え型の宗教」である神道は、日本人の心の奥の奥にまで影響を与えていると言えます。ふだんは神仏など信じない人でも、厄年を迎えるとどうも不安になり、神社で厄除け祈願をすると安心します。

 伊勢神宮の心御柱にならって言えば、神道は日本人の「こころ」の柱となっています。新年になると、明治神宮だけでも元日に300万人以上の参拝人が集まります。世界のどんな教会でも1日に数百万人も押しかけるという話は聞いたことがありません。そのありえない現象が日本中の神社で見られ、正月の風物詩となっているのです。

 日本人は誰が命令するのでもないけれど、アイデンティティのもととして、元日になるとインプットされたデータが作動するように、「出てきなさい」という呼びかけがあるごとく神社へ行くのです。受験勉強で忙しい受験生はなおさら行きます。

 わたしは、ここに日本人の潜在的欲求を見るような気がします。また、日本人は正月になると門松を立て、雑煮を食べ、子どもたちにお年玉を渡します。ここにもインプットされた神道のデータが作用しているのではないでしょうか。

 まさに、神道とは日本人の「こころ」の主柱なのです。日本人の「こころ」の柱は他にも存在します。仏教と儒教です。

 神道、仏教、儒教の三本柱が混ざり合っているところが日本人の「こころ」の最大の特徴であると言えるでしょう。それをプロデュースした人物こそ、かの聖徳太子でした。聖徳太子こそは、宗教と政治における大いなる編集者だったのです。

 儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的平安を実現する。

 すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う。三つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を聖徳太子は説いたのです。いわば、神と仏を共生させるという離れ業をやったわけです。

 もともと、神と仏は原理的に異なる存在です。著者は、その違いを以下のように三つの標語にして、わかりやすく説明しています。

 第一に、神は在るモノ、仏は成る者。 

 第二に、神は来るモノ、仏は往く者。 

 第三に、神は立つモノ、仏は座る者。

 つまり、神とは森羅万象、そこに偏在する力、エネルギー、現われです。

 それに対して、仏は悟りを開き、智慧を身につけて成る者、すなわち成仏する者です。また神は祭りの庭に到来し、訪れてくるモノですが、それに対して、仏は悟りを開いて彼岸に渡り、極楽浄土や涅槃に往く者です。

 また神は祭りの場に立ち現われるがゆえに、神の数詞は一柱・二柱と数えるのに対して、仏は悟りを開くために座禅瞑想して静かに座る者で、その座法を蓮華座などと呼びます。例えば、諏訪の御柱祭や伊勢神宮の心の御柱や出雲大社の忌柱に対して、奈良や鎌倉の大仏の座像などは、立ち現われる神々の凄まじい動のエネルギーと、涅槃寂静に静かに座す仏の不動の精神との対照性を見事に示しています。

 このように、神と仏の違いは非常に大きいと言えます。ある意味で対極に位置する者でありながら、日本で神仏習合が進んだのは、もともと森羅万象に魂の宿りと働きを見る自然観や精霊観があり、それが仏を新しい神々や精霊の一種として受け入れる素地となったからです。

 その自然観や精霊観を「アニミズム」と呼ぼうが、「森羅万象教」や「万物生命教」と呼ぼうが、もっとシンプルに「自然崇拝」と呼ぼうが、実態はそう変わりません。そこには、「一寸の虫にも五分の魂」が宿り、「仏作って魂入れず」という言葉で肝心要のことに注意を喚起してきた文化があります。その文化の根幹にある思想を、著者は「八百万神道」の中核をなす歴史的生命線として「神神習合」と位置づけています。

 神神習合論は、肯定性の思想の極致と言えるでしょう。極論すれば、八百万主義とは全肯定の思想なのです。この日本宗教史における「神神習合」と全肯定思想としての「八百万主義」の指摘こそは、本書の最大の成果ではないかと思います。

 著者は、本書によって、本居宣長、平田篤胤、柳田國男、折口信夫といった偉大な先達たちでさえ気づかなかった神道の核心を発見したのではないでしょうか。

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