No.0218 論語・儒教 『論語に学ぶ』 安岡正篤著(PHP文庫)

2010.12.02

 『論語に学ぶ』安岡正篤著(PHP文庫)を再読しました。

 これまで安岡正篤の名著をいろいろとご紹介してきましたが、本書で一応の打ち止めとします。そして、これからは、さまざまな著者が『論語』について書いた入門書を紹介したいと思います。そうです、『世界で一番わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)を執筆するメモ代わりでもあります。

 安岡正篤は古典、とくに中国古典を読むことを人々に薦めました。その理由は、中国古典が実践の場で役に立つ「実学」であるからというものです。では、どういう点が実学だと言えるのか。ポイントは、中国古典が主に扱っている3つのメインテーマにあります。

 第1は、応対辞令です。安岡は「中国古典は応対辞令の学問だ」と喝破したのですが、たしかにこのテーマが中国古典の大きなテーマになっています。応対辞令とは、社会生活のさまざまな場における人間関係にどう対処するか、という対処の仕方です。立ち居振る舞い、言葉遣い、お辞儀、挨拶、笑顔、さらにはお祝いやお見舞いの仕方まで、そういった現実の生活で必要な知恵の数々です。

 第2は、経世済民です。つまり政治論ですね。これもまた中国古典が好んで取りあげる重要なテーマです。政治論といっても専門的でなく、組織をどう掌握してどう動かすかなど、幅広い応用がきくものが多いといえます。

 第3は、修己治人です。つまりはリーダー論のことですね。上に立つ者はどうあるべきか、組織のリーダーにはどんな条件が望まれるのかを論じるのです。これもまた中国古典の得意とするテーマであり、『論語』をはじめ、あらゆる古典がさまざまな角度から指導者像を探っています。

 科学や技術がどんなに進歩しても、結局、それを動かすのは人間です。肝心の人間に対する理解を欠いては何の意味もありません。また、時代の変化に応じて自分が変わっていこうとする姿勢は大切ですが、自分の心を支える棒のようなもの、いわば「心棒」となるものは決して変えてはなりません。心棒まで変えてしまうと、変化に流され、振り回されるだけです。心棒とは揺るぎのない価値観や考え方のことです。明確な価値観や考え方があるからこそ、変化に適切に対応して、新しいものを生み出すことができるのです。

 こうした価値観や考え方を育てるために古典が役立つのです。その中でも、もっとも役立つ古典が『論語』に他なりません。

 『論語』ほど、実生活のさまざまなシチュエーションで活用でき、わかりやすい本はありません。にもかかわらず、高校時代に漢文の授業で習ったときのイメージが災いして、わたしは難しくて堅苦しいものだと思い込んでいました。しかし、漢文の授業では『論語』のいくつかの言葉を取り上げているだけで、『論語』そのものを読んだことにはなりません。

 また、『論語』の内容は、社会人になってからというか、ある程度、社会の中で人間関係に苦労した経験がないと、読んでもわからないのではないでしょうか。やはり高校生では絶対に理解できないと、わたしは思います。

 本書『論語に学ぶ』を読み、最も興味深かったのは、儒教の「儒」という字の意味です。安岡は、「儒」の意味には色々な説があるとしながらも、「その一つ、儒とは『濡れる』の『濡』からきているので『道徳が雨のように人を包み濡らす』という説。また君主を慰める道化師を侏儒というところから、君主のつれづれの話し相手というほどの、軽輩の官人を指すともいわれています」と述べています。

 わたしは、もちろん、最初の説を信じています。拙著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)には、孔子のみならず、老子やブッダやイエスといった聖人たちに共通する「仁」や「慈」や「慈悲」や「愛」といった他者を思いやる心は、いずれも肉体にとっての「水」と同じように、精神にとって必要なものであると書きました。乾いた大地を雨水で濡らすように、乾いた人心を思いやりの心で潤わせるという意味が「儒」にはあると思います。

 また、安岡は、儒教の重要コンセプトである「孝」の意味も明快に解説しています。ドラッカーの”The age of discontinuity”という書物が『断絶の時代』のタイトルで翻訳出版されたとき、安岡は言いました。「断絶」という訳語はおかしい、本当は「疎隔」と訳すべきであるけれども、強調すれば「断絶」と言っても仕方ないような現代である、と。そして安岡は、その疎隔・断絶とは正反対の連続・統一を表わす文字こそ「孝」であると明言しているのです。

 「老」すなわち先輩・長者と、「子」すなわち後進の若い者とが断絶することなく、連続して一つに結ぶ。そこから「孝」という字ができ上がったというのです。「老」+「子」=「孝」というわけです。この「孝」こそは、ドラッカーの「継続」と「変化」という企業発展のための2大要素を一語で表現したものだったのです。

 さらに、本書『論語に学ぶ』には、「庸」や「和」の字についても詳しく書かれています。じつは、わたしの本名は「庸和」といいます。「つねかず」と読むのですが、祖父が名づけたそうです。ということで、非常に興味深く読みました。庸和は「庸」と「和」に分かれます。まず、「庸」という字は普通の常識では「凡庸」といったネガティブな言葉に連なって理解されていますが、陽明学者の安岡正篤の著作などを読むと、本来は人間の厳粛な統一原理を意味することがわかります。その他にもいろいろな意味があります。説文学的に言うと、庸は庚+用です。庚には改める、更新するという意味がありますが、庸にもやはり同じ意味があって、そこから、絶えず刷新してゆく、続くという意味が出てきます。

 また、それに従って、用いるという意味も出てきます。ですから雇傭する、人をやとうというのは何のためかと言うと、いろいろ仕事を絶えず刷新してやって貰うためなのです。そこで庸の字は手柄・功績・業績の意味にもなります。

 したがって、「つね」という意味もあります。わたしをはじめ人の名前に使われるときには、たいてい「つね」と読んでいます。高田馬場の安兵衛で有名な堀部安兵衛武庸、あれも「たけつね」と読む。なぜ「つね」と読むか。人を用いて、いろいろ業績を挙げてゆくのには、どうしてもそこに一貫して変わらざるものがなければいけません。そこで一般化しますと、当然「つね」、すなわち平常という意味が生まれてくるわけです。また、「つね」は、恒徳という意味にもなります。

 そういうふうになれば、みんな嬉しいこと、楽しいことになりますね。いつも変わらずによく仕事をして、役に立って、それがお手本・きまりになってゆくような人になると、自然とみんなの調和がよくなる。そこで和やかという意味もある。これは人間にとってきわめて望ましい一般的・普遍的なことです。また、そうでなければならぬことです。 

 いま、「和やか」と言いました。ここで庸和のもうひとつの字である「和」が出てきます。人間の意識が進むにつれて、喜怒哀楽の感情が発達するわけですが、その感情の未だ発しないとき、すなわち一種の「独」の状態、これを別の言葉で「中」と言います。中が発してみな節に中=あたる、これが「和」というものです。わたしたちの意識を「気」という文字で表わしますが、意識にもやっぱり意識の基本的なものがあるわけで、それは「気節」と呼ばれる。その気節を失わないのが「節操」です。音楽で言うならば、基本的な部分の音節が発して、すなわち音律となって、曲にあたる。これが「和」なのです。

 このように「庸」と「和」は同義語に近い文字であり、ともに非常に深い意味があります。そして、いずれも『論語』を出典としています。

 雍也篇に、「子曰く、中庸の徳たるや、其れ至れるかな」がある。「先生が言われた。中庸の道徳としての価値はいかにも最上である」の意味ですが、この中庸というコンセプトは後に四書五経の一冊をなす『中庸』の誕生につながりました。中庸について、朱子は「中とは過不足のないこと、庸とは平常の意」と記しています。

 「和」といえば聖徳太子の「和を以って貴しと為す」が有名ですが、実はこの語句の出典も『論語』です。「有子曰く、礼の用は和を貴しと為す」が学而篇にある。「有子が言われた。礼のはたらきとしては調和が貴いのである」の意味です。すなわち、聖徳太子に先んじて孔子がいたわけです。

 この「庸」と「和」を合体させて「庸和」とした祖父のセンスはただごとではないと最近つくづく感じます。おそらく祖父は『論語』を愛読していたのでしょう。そういうわけで、わたしの「庸和」という名は、ともに『論語』に由来する二字から成るわけです。ある意味で、わたしは『論語』の子と言えるかもしれません。

 そして、祖父はもうひとりの『論語』の子を世に送り出しました。松柏園ホテルです。「子曰く、歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るることを知る」は、子罕篇に登場。「先生が言われた。気候が寒くなってから、はじめて松や柏が散らないで残ることがわかる」と訳しますが、春や夏で樹木がみな緑のときは、松や柏といった常緑樹の青さはあまり目立たない。しかし、しだいに寒くなり、他の木がすべて落葉した時節になると、はじめて松柏の輝きが目立つという意味です。

 転じて、人も危難のときにはじめて真価がわかると孔子は言いたかったのだと思います。この「松柏」から命名されたのが、わが社の松柏園ホテルです。そう、松柏園とは不易の常緑樹なのです!

 まことに『論語』とは、わが人生に大きな影響を与えた偉大な書物です。そして、こういうことを教えてくれる安岡正篤は、ありがたい存在です。まさに、日本人で最も『論語』を読みこなした一人であると言えるでしょう。

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