No.0220 論語・儒教 『論語物語』 下村湖人著(講談社学術文庫)

2010.12.06

 『論語物語』下村湖人著(講談社学術文庫)を読みました。

 小説家にして社会教育家でもあった著者は、生涯をかけて『論語』を学んだ人でした。孔子の教えを後世に伝えたい一念で書き上げた本書には、『論語』全篇にわたる章句が自由自在に使われています。

 下村湖人といえば、代表作『次郎物語』が有名です。幼くして里子に出された著者自身の体験を描いた小説ですが、長い間、小学生の必読書のようになっていました。わたしも、小学3年生くらいのときに、赤いカバーが印象的だった偕成社の「ジュニア版日本文学名作選」で読んだ記憶があります。たしか全部で5巻でしたが、現在も偕成社文庫版で読めるようです。

 『次郎物語』の中には、いわゆる修養的なメッセージがたくさん入っていましたが、それは『論語』に由来するものだったのです。『論語』そのものの小説家に挑戦した本書には、孔子と弟子たちの会話がみずみずしい現代語で書かれています。とても読みやすくて、古代中国の世界が身近に感じられます。

 もともとは昭和13年(1938年)に講談社の月刊誌『現代』に連載されたものです。単行本の序文において、著者は『論語』が「天の書」であるとともに「地の書」であるとして、次のように述べています。

 「孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天の言葉を語るようになった人である。天の言葉は語ったが、彼には神秘もなければ、奇蹟もなかった。いわば、地の声をもって天の言葉を語った人なのである」

 また、『論語』の世界を小説仕立てにして、孔子の門人たちの描写も史実を考慮するというよりも現代的な普通の人間として描いたことについて、過去の求道者たちに対して、深くおわびしたいと言いつつ、次のように述べています。

 「しかし、『論語』が歴史でなくて、心の書であり、人類の胸に、時所を超越して生かさるべきものであるならば、われわれが、それを現代人の意識をもって読み、現代人の心理をもって解剖し、そしてわれわれ自身の姿をその中に見いだそうと努めることは、必ずしも『論語』そのものに対する冒瀆ではなかろうと信ずる」

 わたしは楽しみながら本書を読みましたが、中でも最も感銘を受けたのは、孔子の弟子である子路が隠士と出会い、師である孔子の教えをからかわれる場面です。隠士というのは、社会から距離を置いて暮らす隠遁生活者で、儒家を馬鹿にしたところがありました。わが師をボロクソに愚弄された子路は落ち込んで帰ってきますが、その顔を見て万事を了解した孔子はこう言うのです。以下は引用です。

 「わしは人間の歩く道を歩きたい。人間といっしょでないと、わしの気が落ちつかないのじゃ」
  と、孔子は子路から他の門人たちに視線を転じながらいった。
 「山野に放吟し、鳥獣を友とするのも、なるほど一つの生き方であるかもしれない。しかし、わしにはまねのできないことじゃ。わしには、それが卑怯者か、徹底した利己主義者の進む道のように思えてならないのじゃ。わしはただ、あたりまえの人間の道を、あたりまえに歩いてみたい。つまり、人間同士で苦しむだけ苦しんでみたい、というのがわしの心からの願いじゃ。そこにわしの喜びもあれば、安心もある。子路の話では、隠士たちは、こう濁った世の中には未練がない、といっているそうじゃが、わしにいわせると、濁った世の中であればこそ、その中で苦しんでみたいのじゃ。正しい道が行われている世の中なら、今ごろわしも、こうあくせくと旅をつづけていはしまい」
  門人たちは、静まりかえって、孔子の言葉に耳を傾けた。子路の目には、いつの間にか涙がいっぱいたまっていた。彼は、その目を幾度かしばたたいて、孔子の顔をまじまじとうちまもった。
  暮れ近い光の中に、人生の苦難を抱きしめて澄みきっている聖者の姿を、彼は今こそはっきりと見ることができたのである。(『論語物語』より)

 わたしは、この文章を読んで、非常に感動しました。自然や動物を愛することも素晴らしいことですが、わたしたち人間は何よりも人間を愛さなければならないのです。人間を嫌いになれば、血縁も地縁もなくなる一方で、最後には「無縁社会」と呼ばれる地獄が待っています。人間を愛するという”人の道”を、「わしはただ、あたりまえの人間の道を、あたりまえに歩いてみたい。つまり、人間同士で苦しむだけ苦しんでみたい、というのがわしの心からの願いじゃ。そこにわしの喜びもあれば、安心もある」という孔子の言葉は見事に表現しています。

 そして、シンプルな『論語』の記述からこの感動的な言葉を紡ぎ出した下村湖人の筆力は凄いと思います。わたしは、本書の正体が『論語』の”小説化”ではなく、『論語』の”超訳”であることに気づきました。

 この講談社現代文庫版が刊行されたのは、雑誌連載からじつに43年後の1981年ですが、群馬大学名誉教授の永杉喜輔氏は本書について次のように述べています。

 「『論語』の解説書は無数にあるが、自分の生活をかけて『論語』を読みつづけた人はめずらしい。湖人は、その一人である。だから本書は、あくまで湖人の『論語』であって、だれの『論語』でもない。そしてそういう読み方こそが、孔子の学問態度であった。湖人はそれを最も忠実に受けついだ者といえる。学ぶとは古聖人の道を祖述し、かつ実行することだ、というのが『論語』をつらぬく教えである。『論語読みの論語知らず』というのは、『論語』を単に言葉として学ぶ者のことである」

 わたしは、これから『世界一わかりやすい論語の授業』(PHP文庫)を書きます。ぜひ、わたしなりの『論語』、一条真也の『論語』を書きたいと強く思いました。わたしは、「論語読みの論語知らず」にはなりたくないですし、また、なるつもりもありません。

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