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無縁社会』

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No.0231

 

 『無縁社会』NHK「無縁社会プロジェクト」取材班編著(文藝春秋)を読みました。

 

 2010年1月31日にNHKスペシャル「無縁社会~"無縁死"3万2千人の衝撃~」が放映され、大変な話題となりました。本書は、番組を制作したスタッフたちによって生まれた本です。テレビに映らなかった情報や取材する側の感情なども書かれています。


 本書の構成は以下のようになっています。

 

序章 "ひとりぼっち"が増え続ける日本

第一章 追跡「行旅死亡人」―わずか数行にまとめられた人生

第二章 薄れる家族の絆―「引き取り拒否」の遺体の行方

第三章 単身化の時代―「生涯未婚」の急増

第四章 社縁が切れた後に―擬似家族に頼る人々

第五章 "おひとりさま"の女性たち―擬似家族に頼る人々

第六章 若い世代に広がる"無縁死"の恐怖―ツイッターでつぶやく将来の不安

第七章 絆を取り戻すために

 

 他に、「はじめに」「あとがきにかえて」、さらに「静かに広がる『直葬』」「呼び寄せ高齢者」「共同墓」「働き盛りの"ひきこもり"」という4本のコラムが掲載されています。


 本書を読んで、まっさきに思ったことがあります。テレビは一部の情報しか伝えられないメディアであるということです。本書の内容は、テレビで放映されたものと基本的に同じです。

 

 しかし、登場人物のこれまでの人生とか、取材スタッフが初めて会ったときの相手の戸惑いとか、カメラがまわっていないときの様子とか、はっきり言って、テレビに映っていない部分に重大な情報がたくさん含まれていました。特に、第七章に登場する保育園に勤務して幼い姉妹の写真を撮り続けた人物のエピソードなど、本書を読むと、まったく印象が変わってしまいました。

 

 名著『メディア論』を書いたマーシャル・マクルーハンは、さまざまなメディアを「ホットなメディア」と「クールなメディア」に二分しました。

 

 それでは、ホットなメディアとは何でしょうか。それは、情報量が多く、画像も精細で、与えられた情報ですべてが済んでしまうようなメディアです。そのために受け手の参加性は低くなります。代表例は本とされています。一方、クールなメディアとは何でしょうか。それは、情報に欠けた部分があり、受け手がそれを想像力で補っていく必要のあるメディアです。代表例はテレビとされています。じつは、わたしは、このマクルーハンの分析にずっと疑問を抱いていました。なぜなら、テレビこそ究極のホット・メディアではないかという考えが頭を離れなかったからです。

    

 でも、ここ数年でテレビ出演を自ら重ねるうちに、「テレビは、情報のごく一部しか提供できない」という実感が湧いてきました。特に今年、「葬儀」をテーマとする討論番組に出演したとき、その思いは非常に強くなりました。それは、あくまでも情報を発信する側からの発想でした。でも、本書を読み、今度は情報を受け取る側の立場から「テレビはクールなメディア」ということを確信しました。その意味で、本書は「テレビがいかに不完全なメディアであるか」ということを明確に示した本だと言えるでしょう。本書をNHKのスタッフが作ったことは、まことに皮肉でした。


 さて、わたしは、これまで「無縁社会」について多くの発言をしてきました。試しに検索サイトで、「無縁社会」または反対語の「有縁社会」を調べてみて下さい。上位に、いろんなメディアでのわたしの発言や原稿がいくつも出てくると思います。わたしは、「無縁社会」という言葉は呪いであり、わたしたちは「有縁社会」という言葉を使わなければならないとも述べました。

 

 しかし、「無縁社会」という言葉は昨年の流行語大賞にも選ばれました。それほど、あの番組の衝撃は大きかったのでしょう。日本の自殺率は先進国中でワースト2位です。しかし、ここ最近、「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」などが急増しています。引き取り手のない遺体が増えていく一方です。その原因は、日本社会があらゆる「絆」を失っていき、「無縁社会」と化したことにあるというのです。 


 かつての日本社会には「血縁」という家族や親族との絆があり、「地縁」という地域との絆がありました。日本人は、それらを急速に失っているのです。本書のコラムには、「増える『直葬』」というものがありました。

 

 直葬とは、通夜も告別式も行わずに遺体が火葬場に直行し、焼却されることです。家族葬、密葬から、今は本当に直葬が増えてきています。その背景はいろいろあるのでしょうが、日本社会全体が「無縁化」していることもその一つでしょう。NHKスペシャルの放映と同じ2010年1月には、島田裕巳氏の『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)が出版され、非常に売れました。こうした葬式無用論も、無縁社会論も、その背景は同じだと思います。すなわち、人間関係が希薄化し、コミュニティが崩壊しつつあるのです。


 以前の人間関係というのは、地縁、血縁、学縁があり、職縁もありました。ちなみにNHKは「社縁」という言葉を使いますが、わたしは「職縁」という言葉を使うべきだと思います。すべての働いている人が会社員であるとは限りませんから。いずれにせよ、人間は、さまざまな縁の中で生きています。

 

 しかし、今、そのすべてが希薄になってきているのです。同窓会も少ないですし、何よりも会社を定年退職して、そこからまた20年、30年以上生きなければならないという時代になりました。80代でお亡くなりになっても、参列者はいないという方も結構いらっしゃいます。葬儀は「家族でします」、「身内だけでします」という方に、こちらが「葬儀というのは社会的なものですから、できるだけ多くの方にお知らせした方がいいですよ」とお話しても、「そうしなくていい」と言われる方が増えています。

 

 これは、ある意味で人間関係に自信がないからではないかとわたしは思うのです。いくら広くお知らせしても、もし来てくれなかったら寂しい、恥ずかしいといった気持ちがあるからではないかと思うわけです。


 わたしは、冠婚葬祭互助会を経営しています。わが社では、本業の互助会の運営、各種儀式の施行をはじめ、最近では「隣人祭り」や「婚活塾」や「グリーフケア・サポート」などに積極的に取り組み、全社をあげてサポートしています。これらの活動は、すべて「無縁社会」をなくし、「有縁社会」を実現するための試みであると考えています。

 

 また、わたしたちは「良い人間関係づくりのお手伝いをする」ということを会社のミッションにしています。わたしは、人間関係がどんどん希薄になってきている中で、瑣末な演出ばかりやっていても、冠婚葬祭業界の未来はないと思っています。

 

 冠婚葬祭業のインフラはやはり豊かな人間関係につきます。まずは、そのインフラを整備しなければいけないと考えてやっています。「遠い親戚より近くの他人」という諺があります。でも、無縁死を迎えないためには「遠い親戚」も「近くの他人」もともに大切にしなければなりません。そのための冠婚葬祭であり、隣人祭りではないでしょうか。


 そして、この世には、さまざまな縁があります。でも、やはり基本は血縁と地縁であるということを忘れてはなりません。先日のNHK「無縁社会」特集番組には、内閣府参与の湯浅誠氏が出演していました。湯浅氏は、「もう血縁や地縁に期待するのは無理なので、日本人は新しい縁を探さなけれなならない」といったような発言をされていたと記憶しています。

 

 また、「朝日新聞」12月12日付朝刊には、エッセイストの酒井順子氏が本書『無縁社会』の書評を書かれていました。酒井氏とは昔一緒にお仕事をしたこともあるのですが、ベストセラー『負け犬の遠吠え』の著者として有名ですね。

 

 思えば、生涯非婚の女性の悲哀をユーモアたっぷりに描いた『負け犬の遠吠え』も、無縁社会の関連書なのかもしれません。その酒井氏は、血縁や地縁といった旧来型の縁だけでなく、ネットでつながる縁、NPOやサークルでつながる縁など、縁の形が変化しつつあると指摘しつつ、次のように述べています。

 

 「新しい型の縁は、今後もっと重要視されることでしょう。旧来型の縁の中で死ぬことができない人たちが、今は『不幸』『孤独』『悲惨』とされるわけですが、そろそろ視点とシステムの転換が必要なのではないか」

 

 酒井氏の意見も、基本的に湯浅氏と同じであると言えるでしょう。


 たしかに、わたしも、今後は趣味の縁である「好縁」や、ボランティアなどで志をともにする「道縁」などの存在が重要になってくると思います。しかし、それよりも、まずは崩壊しかかっている「血縁」や「地縁」を再生することが最優先なのではないでしょうか。

 

 わたしたちは、「血縁」や「地縁」をあきらめてはならないのではないでしょうか。第一、本当に「血縁」や「地縁」が消滅してしまった民族や国家など、それこそ存在している意味がありません。人間というのは、血縁と地縁の中で生きている存在であるという基本を忘れることは非常に危険だと思います。「遠い親戚より近くの他人」という諺があります。でも、孤独死や無縁死を迎えないためには「遠い親戚」も「近くの他人」もともに大切にしなければなりません。そのための冠婚葬祭であり、隣人祭りであると思っています。


 ところで、本書を読んで、無縁社会のキーワードは「迷惑」という言葉ではないかと思いました。みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。

 

 「残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい」

 

 「子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくていい」

 

 「失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない」

 

 「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」

 

 「好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう」


 すべては、「迷惑」をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えてなりません。そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。当たり前ではないですか!これの、どこが迷惑なのですか!(怒) 逆に言えば、葬式をあげたり墓を守ることによって、家族や親族の絆が強くなってゆくのではないでしょうか。わたしは本気でそう思います。

 

 また、自分が飢え死にしそうなほど貧しくて、親や親戚が元気ならば、助けを求めるのは当然ではないですか! 一体全体、どこが迷惑なのですか!(怒) 逆に、自殺したり、孤独死したりするほうが、よっぽど迷惑ではないでしょうか!(怒)

 

 何か、日本人は「迷惑」ということを根本的に勘違いしているような気がしてなりません。行政も、孤独死に頭を悩ませるのなら、「迷惑防止条例」ばかり作らずに、「迷惑と考えること防止条例」でも作ったらよろしい。


 本書の序章「"ひとりぼっち"が増え続ける日本」で、NHK報道局・社会番組部ディレクターの板垣淑子氏は、次のように述べています。

 

 「そもそも"つながり"や"縁"というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものではなかったのだろうか―。その疑問は、取材チームの胸の内に突き刺さり、解消されることはなかった。

 『迷惑をかけたくない』という言葉に象徴される希薄な"つながり"。

 そして、"ひとりぼっち"で生きる人間が増え続ける日本社会。

 私たちは、『独りでも安心して生きられる社会、独りでも安心して死を迎えられる社会』であったほしいと願い、そのために何が必要なのか、その答えを探すために取材を続けていった」


 また、板垣氏は第七章「絆を取り戻すために」でも次のように書いています。

 

 「あなたの周囲に、居場所を失って困っている人がいたら、手を差しのべてください。

 そして、自分自身にとって大切な"居場所"をも築いていってほしい、と―。

 無縁社会という時代を生き抜くことは容易ではない。単身で暮らす人たちを支える社会保障の仕組み作り、ネットワーク作りといった課題も山積している。

 しかし、制度や仕組みだけで無縁社会と立ち向かうことはできない。ひとりひとりが"つながり"を作ろうとするささやかな勇気の積み重ねこそが必要なのかもしれない。

 『誰にも迷惑をかけたくない』とひとりで生きる人たち―。

 『迷惑なんかじゃない。頼って、頼られて、それでいいじゃないか』

 "無縁死"をなくすために、私たちは、そのことを"つながり"が薄れてしまった今の社会に伝えていかなくてはならないと覚悟している」


 わたしは板垣氏のいう「独りでも安心して死を迎えられる社会」という言葉には非常に共感しました。いたずらに「生」の大切さを唱えるばかりでは、社会を良くすることはできないからです。この言葉はテレビでも流れましたが、NHKがこういう言葉を堂々と放送するようになったことは喜ばしいことだと思います。

 

 じつは、わたしは「無縁社会」についての一連のNHKの報道姿勢には疑問を抱いていました。もともと「無縁社会」という日本語はおかしいのです。なぜなら、「社会」とは「関係性のある人々のネットワーク」という意味です。ひいては、「縁ある衆生の集まり」という意味なのです。

 

 「社会」というのは、最初から「有縁」なのです。ですから、「無縁」と「社会」はある意味で反意語ともなり、「無縁社会」というのは表現矛盾なのです。どうも、「無縁社会」という言葉には、心霊番組「あなたの知らない世界」のように、無理矢理に人を怖がらせようとする意図があるように思っていました。というのも、NHKの一連の番組作りを見ていると、どうも、そこには「絶望」しかないように思えるのです。どう考えても、「希望」らしきものが見当たらないのです。


 NHKといえば、ドラマスペシャル「坂の上の雲」の第8回「日露開戦」を観ました。先週の日曜の放映でしたが、東京の銀座で映画「白いリボン」を鑑賞したために観ることができませんでした。それで今夜、録画していたDVDを観たのですが、その中に非常に印象深いシーンがありました。連合艦隊司令長官・東郷平八郎から参謀の大役を仰せつかった秋山真之が、その報告をするために兄である秋山好古の家に行く場面です。

 

 そこには、秋山兄弟を産み、育てた実の母親がいるのです。老いた母は、新婚である真之の妻の面倒はきちんと見るから後の事を気にせず自分の務めを果たすように言います。自らも史上最強のコサック騎兵と戦う運命にある兄の好古は、その場に集まった一族の顔、母、自分の妻や子どもたち、弟の妻の顔を見渡しながら、「みんな、縁あって秋山の人間になった。みなと暮らした月日は、あしにとって宝じゃ」と感慨深く言うのです。その後、息子との永遠の別れを覚悟しながらもすすり泣く老母の横で、兄弟は盃を交わします。それは、別れの盃であったのか。兄弟の縁を固め直す盃であったのか。「血縁」というものの大切さを痛感する感動的な場面でした。まさに、「孤族」ではなくて「家族」、「無縁」ではなくて「有縁」のありがたさ、素晴らしさを思いました。


 いたずらに「無縁社会」の不安を煽るだけでは、2012年に人類が滅亡するという「マヤの予言」と何ら変わりません。それよりも、わたしたちは「有縁社会」づくりの具体的な方法について考え、かつ実践しなければなりません。その意味で、板垣氏の「ひとりひとりが"つながり"を作ろうとするささやかな勇気の積み重ねこそが必要なのかもしれない」という言葉には心に響くものがありました。

 

 わたしたちは、日々、"つながり"を作りのささやかな勇気の積み重ねのお手伝いをさせていただいています。そして、その具体的な方法は2011年3月刊行の『隣人の時代~有縁社会のつくり方』(三五館)で明らかにするつもりです。もっと早く刊行したかったのですが、出版社の事情で3月刊行となりました。


 キーワードは、やはり「隣人」です。家族がいなくても隣人のいない人はいません。酒井順子氏も、くだんの書評の最後に、「家族にはうっとうしがられる『迷惑』も、他人であれば受けとめてくれる場合も、あるのですから」と書いています。

 

 一昨日は、クリスマスでした。クリスマスはイエスの誕生日とされています。本当はイエスの誕生日ではありません。でも、イエスが「隣人愛」の大切さを説いたことは歴史上の事実です。あなたの周囲にいる隣人たちが、「有縁社会」をつくってくれます。

 

 また、あなた自身が誰かの隣人となって、「有縁社会」をつくるのです。「無縁社会」というのは、呪いです。「有縁社会」というのは、祈りです。わたしたちが迎えるべき社会は、もちろん、有縁社会です。

 

 今年が「無縁社会」元年なら、来年は「有縁社会」元年としたいものです。