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三島由紀夫と戦後』

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No.0215

 

 『三島由紀夫と戦後』中央公論特別編集(中央公論新社)を読みました。

 

 今月25日に三島由紀夫の没後40周年を迎えました。その記念出版となる本書は、非常に盛りだくさんの内容となっています。


 わたしが一読して感ずるところのあった箇所を抜書きしたいと思います。「戦後とは何か」のタイトルで、冒頭に三島の予言的エッセイが集められていますが、昭和40年に書かれた「私の戦争と戦後体験」には次のような一文があります。

 

 「あとになって、ハタと気がついたのだが、戦争とはエロティックな時代であった。今巷に氾濫する薄汚ないエロティシズムの諸断片が、全部一本の大きなエロスに引きしぼられて、浄化されていた時代であった。そのことに当然気がついていなかったのだから、戦争中に死んでいれば、私は全く無意識の、自足的なエロスの内に死ぬことができたのだ、という思いを禁じがたい。平和論者にとっては、見つめたくない真実だろうが、たしかに戦争には、悲惨だけがあるのではない。それを私のような何ら戦争の被害を受けないかのような人間が言うと思われると困るから、言っておくが、私も亦、戦争の間接の影響により、妹をチフスで喪っている」


 また、昭和45年の「果たしえていない約束」には次のように書かれています。

 

 「肉体のはかなさと文学の強靭との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てなかったことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレール流にいえば、『死刑囚たり且つ死刑執行人』たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を発見したときに、近代がはじまったのではなかろうか。私のこの『近代』という意味は、古代についても妥当するのであり、『万葉集』でいえば大伴家持、ギリシア悲劇でいえばエウリピデスが、すでにこの種の『近代』を代表しているのである」


 さらに、「果たしえていない約束」の最後は以下のように書かれています。まさに、現代日本の現状を見事に予言していると言うほかはありません。

 

 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」


 作家で詩人の松浦寿輝氏へのインタビュー「三島という大きな謎」では、松浦氏は「僕の素朴な疑問は、なぜ彼はあんなにたくさん書かなくちゃいけなかったのかということなんです」と最初に述べます。なにしろ、新潮社の『三島由紀夫全集』は全42巻です。職業作家になって実質20年であれだけの仕事をし、しかも『夏子の冒険』のように、天下の三島が書く必要もなかった変なものにまで律儀に付き合っていることが謎だというのです。三島の驚異的な執筆量について、松浦氏は次のように述べます。

 

 「自分の中から言葉やイメージが噴き上がってきて、あふれ出すように書く人だったとは、僕には到底思えない。例えばバルザックみたいな、一日二、三時間しか眠らないで、立ったままで書き続けるような作家もいますね。自分の中で、小説の登場人物が生きて動いて、その後を息せき切って追いかけながら書くというような。三島の場合はそういうのとは違う、何か異様な義務感みたいなものを感じます」


 対談「三島由紀夫を読みなおす」では、文芸評論家の三浦雅士氏と作家の平野啓一郎氏が三島の文学について語り合っています。

 

 三浦氏は、平野氏の評論集『モノローグ』に収められている2つの三島論を刺激的で面白いと賞賛しています。平野氏によれば、金閣を天皇のメタファとして捉え、三島は『金閣寺』を書くことで天皇に対する心情と論理を明確にしたといいます。

 

 平野氏は、「金閣は天皇のメタファとして読めるという書き方をしましたが、初めから三島が天皇を想定していたというよりも、逆にその後、あそこの金閣=絶対者のイメージが、三島天皇論の雛型になっていったところもあると思います」と述べます。

 

 これに対して、三浦氏は平野氏の指摘の奥行は深いとしながらも、三島の真の意図はそう簡単にはわからないとして、次のように述べます。

 

 「作家に限らず人間はみなそうだと思いますが、自分の意図は後になってからしかほんとうは分からない。作家としての平野さんにしてもそうです。囲碁で言えば序盤戦で、置かれた石の意味はほんとうにはまだ分からない。完成品として登場した『日蝕』にしてもそうです。『葬送』を経て『決壊』まで、作者が何らかの意図を持って書いているのは確かだけれど、そのほんとうの意図は実は謎ではないかと思う。つまり作者も自分の意図を知らない。だから書き続ける。三島由紀夫にしてもそうです。あれほど明晰な人であり、自作についての言及も多い人でありながら、完全には掌握していなかったと思います」

 

 この「作家のほんとうの意図は本人にも分からない」という三浦氏の指摘は鋭いですね。それは、わたし自身の場合に置き換えても、その通りだという気がします。


 平野氏では、次の発言が興味深かったです。

 

 「非常に重要なのに、なぜかあまり指摘されないのですが、『金閣寺』の書き出しには、主人公が金閣を美しいと思うようになったのは父親からそう教えられたからだと書かれています。そこから金閣を美の象徴に押し上げていって、実際の金閣を目にした時には『美というものはこんなに美しくないものだろうか』と失望する」

 

 平野氏は、それは三島にとっては戦前の「國體」と呼ばれるものも同じだったのではないかといいます。「國體」とはこうだとさまざまに言われ続けてきたけれども、それはすべて「始めに言葉ありき」だったというのです。それは、本書に収録されている石原慎太郎氏への特別インタビューでの石原氏の最後の発言にも通じる問題です。石原氏は次のように語っています。

 

 「三島さんは、本当は天皇を崇拝していなかったと思うね。自分を核に据えた一つの虚構の世界を築いていたから、天皇もそのための小道具でしかなかった。彼の虚構の世界の一つの大事な飾り物だったと思う」


 その石原氏は、1970年11月25日、すなわち三島自決の日、東京・紀尾井町のホテルニューオータニで仕事をしていたそうです。すると、秘書から「大変です。大事が起こっています」と電話が入り、石原氏は市ヶ谷の現場に駆けつけます。現場には、川端康成がどこかのホテルか何かで仕事をしていたのか先に来ていたそうです。警察に「石原さんですか。まだ検証は済んでいませんが、現場をご覧になりますか」と訊かれましたが、先に川端康成が現場に入ったと知り、石原氏は断ったそうです。

 

 石原氏はその日の夕刊で三島が割腹しただけでなく、首をはねさせていたことも知っていました。石原氏は、転がっている三島の首を見たら、きっと何かを感じて取り返しがつかなくなる予感がしたというのです。実際、三島の首を見た川端康成は精神に異変をきたしました。石原氏は述べます。

 

 「川端さんは明らかに、胴体から離れた三島さんの首を見て何か感じとったんだろう。川端さんも、ある意味では怖いものを書いてもいたけど。あんな耽美的な人が、自分の美的な世界とは異なる、まったく異形なものを見たわけでしょう」

 

 もともと川端康成は睡眠不足でノイローゼ気味だったそうですが、事件の後、人と話しているときに「あ、三島君が来た」などと言っていたりしたそうです。それから、まもなくノーベル賞作家・川端康成は自殺したわけです。


 本書の目玉企画として、三島由紀夫と石原慎太郎の3つの対談が収められています。いずれも全集未収録であり、石原氏本人でさえ忘れていた対談です。「モテルということ」、「新劇界を皮肉る」、「天皇と現代日本の風土」の3本です。わたしは、全集に収録されている両者の対談もすべて読んでいます。

 

 いつも驚くのは、若き日の石原慎太郎氏が先輩作家である三島に対して歯に衣を着せずに放言していたということ。三島の真剣での居合を「踊りみたいだ」と茶化したり、盾の会を「おもちゃの兵隊」と表現したり、とにかく言いたい放題なのです。それに対して、三島はいちいち腹を立てていたようです。両者の関係は、なかなかデリケートなところがありました。背の低い三島が長身の石原氏にコンプレックスを感じていたというのは有名ですが、石原氏が政治家になってから三島の態度は変わりました。それまで石原氏をヤンチャながらもかわいい後輩作家として扱ってきたのに、いきなり新聞で公開質問状を突きつけてきたり、攻撃的になったのです。

 

 三島の母親と佐藤栄作夫人は仲が良かったそうですが、お母さんが佐藤夫人に「息子がつまらん、つまらんっていうので、困るのよ。それで、どうしてって訊いたら、川端(康成)さんがノーベル賞を取るし、石原は政治家になっちゃうし、もう俺には何も残されていないといっている」と言ったとか。でも、このエピソードを当人である石原氏がインタビューで明かすのは、いかがなものかと思います。でも、意見が一致するよりも食い違うところの多かった2人ですが、何度も対話を続けているところを見ると、やはり心の底では通じ合っていたのでしょう。

 

 石原氏は、インタビューの最後に「やっぱり、僕にとっては、三島さんは懐かしい」と述べ、インタビューのタイトルも「三島さん、懐かしい人」となっています。両者が最も重んじていた信条は、ともに「自己犠牲」であったそうです。時々だけスイングする2人の対談を読むと、鎌田東二さんとわたしの「ムーンサルトレター」の内容に似ているような気がしました(笑)。

 

 「天皇と現代日本の風土」でも、両者は次のように最高にスイングしました。 

 

 石原

 「ただぼくは、安保の問題でも何の問題でもいいけれど、すべての日本の事件をもっと徹底して、日本人が好きなフェスタにすればいいんですよ。そしてその祭主というものがある。戦国時代の各武将がともかくも京都に行ってみようとした。そういう国家的・社会的・民族的な事件を、西洋近代論理で意義づけたりすればするほど、フェスタというものの性格がどんどんはがれて、離れていくし、その中での天皇的存在なるもの―それが天皇であってももちろんいいんだけれども―祭祀の核としての意味というものがなくなっちゃうですね」

 

 三島

 「日本は、本当に祭りというものを忘れてはだめだね。日本人というのは祭りが好きだし」

 

 石原

 「こんなにバライティー(原文ママ)にとんだ祭りのある国はないでしょう」

 

 三島

 「しょっ中日本のどっかでお祭りをしていますね」

 

 石原

 「日本の風土神というのは、全部、春の祭りの神、秋の祭りの神、海の祭りの神、山の祭りの神。全部神ですからね」


 この「祭り」についての日本人論も、鎌田さんといつも語り合っている内容とまったく同じでしたので、軽い驚きをおぼえつつ嬉しく読みました。

 

 最後に、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で激を読み上げた行為についての2人の文化人の意見をご紹介したいと思います。1人目の文化人とは、評論家の吉本隆明氏です。吉本氏は、『新潮』平成2年12月号に掲載された「激のあとさき」で次のように述べています。

 

 「このときの印象をひと言いえば、三島由紀夫が不意に自衛隊のなかでなにかをはじめたなということだった。そして意外だったのは、自衛隊の弥次がとても激しいことだった。わたしなどの印象では自衛隊の存在を認め、親和感をもち、体験入隊のかたちで軍事訓練に参加したりしていたのは、三島由紀夫と『楯の会』だけで、自衛隊など市民社会では日蔭者的な存在と思われているだけだった。せっかくまれな同調者が語りかけているのに、聞くだけ聞いてやるのが礼儀なのにと思えた」


 2人目の文化人とは、作家の司馬遼太郎です。昭和46年11月26日付「毎日新聞」の「異常な三島事件に接して」という記事で次のように述べています。

 

 「新聞に報ぜられるところでは、われわれ大衆は自衛隊員をふくめて、きわめて健康であることに、われわれみずからに感謝したい。三島氏の演説をきいていた現場自衛隊員は、三島氏に憤慨してヤジをとばし、楯の会の人をこづきまわそうとしたといったように、この密室の政治論は大衆の政治感覚の前にはみごとに無力であった。このことはさまざまの不満がわれわれにあるとはいえ、日本社会の健康さと堅牢さをみごとにあらわすものであろう」


 命を懸けた三島の最期の激に対する自衛隊員の態度への感想が、吉本隆明と司馬遼太郎では180度違うわけです。そして、司馬遼太郎の発言が事件直後の興奮冷めやらない中であり、吉本隆明は事件から20年後に冷静に振り返っているという違いはあるにせよ、両者のスタンスは明らかに異なっています。

 

 「自分たちへの同調者が語りかけているのだから、聞くだけ聞いてやるのが礼儀」という吉本の発言はまさに「礼」の本質を語っています。一方、稀代の人間通と思っていた司馬が、ヤジをとばしたり、あろうことか少人数の楯の会の会員を大人数の自衛隊員たちがこづきまわすことを肯定していたとは、少々ショックでした。思想うんぬんより、司馬遼太郎には、「礼」というものが理解できていなかったようです。

 

 ちなみに、生前の三島由紀夫は司馬遼太郎の文学をまったく認めていませんでした。単なる大衆文学の人気作家ぐらいにしか思っていなかったようです。もしかすると、事件後に辛らつなコメントを発した司馬遼太郎の心の中には純文学のスーパースターであった三島由紀夫への暗い想念があったのかもしれませんね。