No.0196 ホラー・ファンタジー 『白い部屋で月の歌を』 朱川湊人著(角川ホラー文庫)

2010.10.12

 白い部屋で月の歌を』朱川湊人著(角川ホラー文庫)を読みました。

 第10回日本ホラー小説大賞短編賞を受賞した「白い部屋で月の歌を」、および「鉄柱(クロガネノミハシラ)」という中編小説の2作が収められています。現在の著者はノスタルジック・ホラーあるいはファンタジーの名手として知られていますが、本書の2作はいずれも完全なホラーと言える作品です。

 「白い部屋で月の歌を」の主人公ジュンは、霊能力者であるシシィのアシスタントを務めています。ジュンの仕事とは、霊魂を自らの体内に受け入れることです。霊が体内に入ってくるとき、彼には自分の内側の白い部屋に入ってくるように見えます。

 ある日、あるショックで生きながら霊魂が抜けてしまった少女が白い部屋に入ってきたとき、ジュンはその面影に恋をしてしまいます。本書のカバーには、「斬新な設定、意外なラスト、ヴィジョン豊かな美しい文体の新感覚ホラーの登場!」と銘打たれています。でも正直言って、わたしはそれほどの感銘は受けませんでした。

 ホラー小説大賞の選評が巻末に掲載されていますが、選考委員の1人である荒俣宏氏は、本作のラストを「意外」ではなく「平板」と評しています。古今東西の怪奇幻想文学に通じている「目利き」の荒俣氏にとっては、ありふれた「オチ」だったのでしょう。また、わたしは日本人が書いた作品の登場人物が横文字の名前なのはどうしても違和感があるというか許せないほうなので、その意味でも趣味に合わない作品でした。

 ところが、本書に掲載されているもう1作の「鉄柱」は非常に面白く読めました。辺鄙な地方に伝わる奇怪な風習を描いた作品で、民俗学的興味にあふれた「奇習もの」とでも呼べるジャンルです。このジャンルには多くの作品があり、たとえば石原慎太郎『秘祭』などもその一つです。

 沖縄の離島とか、中国地方の山奥(横溝正史の世界がまさにそうですね)とかに伝わる異常な怪奇習俗をテーマにしたものが多く、過疎地に対する悪質な偏見であると批判する見方もあるようです。鎌田東二さんも、明らかに八重山諸島を舞台とした『秘祭』には離島に対する差別意識があると憤慨されていました。この「鉄柱」もそんな要素がなきにしもあらずですが、「東京から遠く離れた山間地帯の町」とだけ描写しており、特定の地名などは出てきません。

 この田舎町には、「満足死」という文化があったのです。そして、人々は鉄柱を使って満足死を実現します。主人公の雅彦は、会社の部下である智恵の祖母の通夜で奇妙な経験をします。その場面は、次のように描かれています。

 「智恵の祖母の通夜は山の中腹にある小さな寺で行われたが、雅彦は少しばかり面食らった。通夜には今まで三回しか出席したことがないが、そのどれにも似ていない気がしたからだ。
 初めに違和感を感じたのは、受付だ。
 葬儀場の入り口にテーブルを持ち出し、何人かの中年の男女が座っていたが、皆が皆、不謹慎なまでに明るかった。弔問客のほとんどが知り合いとはいえ、誰もが笑顔で挨拶を交わし、時には冗談を言って、大笑いさえしているのだ。
 その様子を見て、雅彦は少なからず不快を感じた。通夜や葬儀の場では、笑顔は禁物のはずだ。きっと馴れ合うあまり、けじめをなくしてしまっているのだろう。
 ところが焼香のために祭壇の前に並んでも、その状況は変わらなかった。作法は普通通りだったが、直ぐ隣りの部屋に設けられたお清め場から、絶えず地元訛りのおしゃべりと笑い声が響いて来る。
 (いいのか、こんなに明るくて)
 雅彦は戸惑った。人が亡くなったという悲しみが、あまりに感じられない。通夜というより、ただの宴会のようだ。
 世界のどこかには、葬儀の場でことさら明るくするという文化が、まったくないとは言い切れない。もしかしたら、この町はそういうところなのだろうかと本気で思った」

 雅彦は、故人の遺体を納めたお棺の横に1枚の紙が置かれているのを発見します。その紙には、「願わくは花の下にて春死なむ、そのきさらぎの望月のころ」という西行法師の有名な歌が書かれていました。その歌の意味を問う雅彦に、親切な町内会長が次のように答えてくれます。

 「『できることなら桜の下で死にたい、この二月の満月の頃がいい・・・・・というのが、だいたいの意味です。これは西行法師の辞世の歌だと言われていましてね。本当に、この歌の通りに亡くなったそうですよ』
 『自分の死期を悟っていたんですか?』
 『さぁ、どうでしょう。確かに、自分の命が短いことを予知して詠んだ歌とも考えられますけど・・・・・その歌の通りになるように、自分で死ぬ日を決めたと考える方が自然じゃありませんか』

 つまり、西行法師は歌の内容通りに自殺したというわけです。驚く雅彦に対して、町内会長は、「彼は自分の人生に満足していたと思うんですよ。いろいろあったとは思いますけど、この歌には、悲しさや惨めさは微塵も感じられません。満足のいく人生を歩んだものだけが口にできるような、死に対する親愛感みたいなものに満ちています。むしろ爽やかささえ感じられると思いませんか」と言うのです。そして、続けて次のような発言が町内会長の口から出てきます。

 「この町では、この歌を書いた紙を残して亡くなった人の葬儀では、むしろ結婚式以上に祝うのが習わしなんですよ。その人が自分の人生に満足を感じて、幸せの中で人生の幕を引く方を選んだのですからね。おめでたいことじゃないですか」

 これを聞いた雅彦の「おめでたい・・・・・ですか?」の一言で、物語は一気にホラー色を濃くしていきます。でも、もし雅彦のセリフが「なるほど、そういう考えも確かにありますよねぇ」だったら、物語はまた全然違った方向へ向かったのではないでしょうか。要するに、「満足死」という考え方を異常で猟奇的なものだと決め付けているわけです。

 誤解されては困るのですが、わたしは「自殺」を肯定しているわけではありません。それどころか、日本人の自殺を少しでも減らすべく、さまざまな活動を行っています。しかし、あらゆる人類の文化の中で、自殺が必ずしも「悪」とされてきたばかりではないことも、わたしは知っています。

 日本においても、武士の切腹をはじめ、自殺の文化というものが実在しました。それを一方的に異常で猟奇的なものとするのもいかがなものでしょうか。個人的な感想を言えば、満足死で亡くなった故人の葬儀を明るく執り行うというのは大いに「有り」だと思います。この作品が角川ホラー文庫に収録されているように、ホラーとして書かれたことも「満足死」というアイデアにとっては不幸なことでした。

 これがホラーではなく、純文学だったら、また全く違った作品になっていたと思います。もしかしたら、安楽死の問題を扱った森鷗外の「高瀬舟」のように、日本人の死生観に問題提起をするような作品になったかもしれません。その意味で、「鉄柱」という中編小説は非常に面白かったのですが、残念な作品でもあったと思います。

Archives