No.0178 宗教・精神世界 『宗教とは何か』 テリー・イーグルトン著、大橋洋一+小林久美子訳(青土社)

2010.09.19

 宗教とは何か』テリー・イーグルトン著、大橋洋一+小林久美子訳(青土社)を読みました。

 『神は妄想である』を書いたリチャード・ドーキンス、 『神は偉大ならず』を書いたクリストファー・ヒッチンスなど、ここのところ、科学者による激しい宗教批判が目立っています。本書は、現代イギリスを代表するマルクス主義批評家である著者による、それらの宗教批判への反論です。

 本書の冒頭には、次のように書かれています。

 「宗教は、言語に絶する悲惨を人事にもたらしてきた。宗教の大部分は、偏狭な信念や迷信や誇大妄想や抑圧的イデオロギーなどが織りなすおぞましい物語そのものだった。それゆえ合理主義とヒューマニズムに立脚する宗教批判者たちに、わたしは大いに共感をおぼえる。しかし、この本で議論するように、そうした批判者たちの宗教否定の議論は、あまりに安っぽいのもまた真実なのだ」

 ドーキンスらの科学者たちは宗教をヒステリックに批判しますが、彼らは科学も人類にさまざまな害をもたらしたことには触れようとしません。

 本書の「訳者あとがき」には、「宗教のよいところを微塵も認めようとしない、その頑ななところは、なにか狂信的なものを感じずにはいられないし、それは反転して科学そのものへの反省のなさとも響きあっていて、殺人犯がみずからの罪を隠蔽してべつの殺人犯を告発するようなものだといえないだろうか―その告発は正しいとともに間違っているのだ」と書かれていますが、まったく同感です。

 訳者も述べているように、人文分野と自然科学分野との潜在的対立をいたずらに煽るのではなく、両分野に属する人々の対話と協調が必要でしょう。ずばり、宗教と科学が互いにないものを補いあえばよいのです。

 ドーキンスはたしかに「現代のダーウィン」と呼ばれるべき超一流の進化生物学者だと思いますが、彼の宗教批判は人文科学と自然科学の無用な対立をあおるイデオロギー的行為になっていることは確実でしょう。

 著者は、サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』で示したように、「文明」と「野蛮」が対立しているという図式を取りません。代わりに、「文明」と「文化」の対立という図式を打ち出します。ポスト9・11である現在、衝突は「文明」と「文化」の間に発生すると主張するのです。

 ここで、著者がいう「文明」とは、普遍性・自律性・繁栄・合理性・自己懐疑などを意味します。また、「文化」とは、習慣・集団・情念・自律性・非懐疑などを意味します。

 これらの対立は、西洋と非西洋の対立、あるいは植民地宗主国と被植民地国との対立ともなります。対立する一方で、「文明」と「文化」には相互に依存しあうという一面もあります。その場合の「文明」が繊細・物質主義・普遍的価値・合理的・抽象であるとするなら、「文化」は粗暴・強度・アイデンティティ・情緒的・地域色・非合理的・美的・具体となります。問題は、「文化」というものが普遍的・抽象的価値としての「文明」を特定の場所や時代に媒介するはずであったのに、逆に「文明」を攻撃するようになった現在の状況にある、と著者は述べます。

 そして、著者は「文明」と「文化」を仲直りさせる役割を、なんとマルクス主義に求めるのです。著者は、もともとマルクス主義の文化理論家ですが、宗教のめざす革命と救済こそは後期資本主義の格差・貧困を打開する可能性を持っていると説きます。

 「宗教は阿片である」という言葉はあまりにも有名ですが、マルクスはまた宗教を「心なき世界の心、魂なき状況の魂」と呼びました。すなわちマルクスは、伝統的な宗教とは、心なき世界にとって想像しうる唯一の心であるといわんとしたのです。また、著者が描くマルクス像もエキセントリックな宗教批判者とはかけ離れており、次のように述べています。

 「マルクス主義が文化と文明の和解という展望を提起するとすれば、それは、なによりもまず、提唱者マルクスが、ロマン主義的ヒューマニズムであったと同時に、啓蒙的合理主義者の後継者でもあったからである。マルクス主義は文化と文明―すなわち感覚的個別性と普遍性、労働者と世界市民、地域的結束と国際的連帯、生身の個人による自由な自己実現とそうした個人がたがいに協力しあうグローバルな共同体―をともにあつかう。だが、わたしたちの時代におけるマルクス主義は、唖然とするほどの政治的拒絶にさらされてきた。そして居場所をなくしたラディカルな衝動が移動先のひとつとして見出したのが―よりにもよって―神学だった。今日、神学におけるいくつかの領域ではドゥルーズ、バディウ、フーコー、フェミニズム、マルクス、ハイデガーについて、もっとも豊富な知識を駆使しつつ活発な議論がおこなわれている」

 さて、わたしが本書を読んで最も興味深かったのは、イエス・キリストの「死者」と「家族」に対する態度について書かれた部分でした。まず、「死者」への態度ですが、イーグルトンは次のように述べています。

 「『死者は死者をして埋葬せしめよ』とイエスは、追随者たちにそっけなくいってのける―当時のユダヤ人にとって、死者の埋葬は聖なる責務であり、埋葬されずに放置される死体というのは、考えられない醜聞であったことを鑑みれば、このイエスの発言は、あきれてものもいえないような、言語道断の考え方であった。イエスは、さしせまる自身の死をストイックな冷静さでうけとめるどころか、ゲッセマネの庭園では、死をおもって恐怖のパニックにおちいる。またいかなる場合にも、彼は病気で苦しむ者たちを、彼らの苦しみと和解せよとは告げていない。その反対で、病人やけが人が人間共同体への全面的参加を拒まれていることの問題点を認識していたようだ。イエスの目的とは、彼らをまず社会全体の友愛関係にさしもどすこと、そうすることによって、彼らを完全な健康状態へと復帰させることであった」

 次に、イエスの「家族」に対する態度を見てみましょう。著者は、それは徹底して敵対的なものだったとして、次のように述べます。

 「アメリカの広告業界では大いに好まれている家族という心地よくささやかで控えめな集団を、イエスはみずからの使命とばかり引き裂きにかかり、家族のメンバーどうしを仲たがいさせるのである。またたしかにイエスは、とりわけ自分の家族と貴重な時間をほとんどすごしていない。リチャード・ドーキンスは『神は妄想である』のなかで福音書のこうした側面をうんざりするような狭量な偏見の眼で嫌ってみている。福音書にみられる家族への冷たいまなざしは、ドーキンスにとって、宗教カルト集団の誘拐行為を暗示するものでしかない。ドーキンスがみていないのは、正義を求める運動は、エスニック集団や社会的・国民的境界を横断するだけでなく、伝統的な血の絆を断ち切るということだ。正義は血よりも濃いのである」

 ドーキンスは生物の「進化」を専門とする科学者ですが、ユダヤ・キリスト教の中核には「進歩」思想があることはよく知られています。そして、その時間観は、仏教の「輪廻」に代表される循環的なものではなく、あくまでも直線的です。直線的な時間の到達点には、普遍的な平和と正義の到来としての「神の統治」が待っています。しかし、「神の統治」とは果たして何でしょうか。著者は、次のように述べます。

 「ヴァルター・ベンヤミンが認識していたように、神の統治とは、いうなれば永遠の相でみたときの、抑圧された者たちの側にたった戦い、それも蹴散らされ、しばしば敗北を運命づけられた戦いの総体であり、それらはひとつにまとめられることで、一貫した物語として実現し救済されるのである。近代は大きな物語を信じている。いっぽうポスト近代は信じていない。ユダヤ人とキリスト教徒は、いまだ到来しない大きな物語がひとつあると信じている。それはあとから回顧すると物語とわかるような物語なのだ。ベンヤミンは書いている『救済された人類だけが、みずからの過去が首尾一貫した物語であったことを理解し受け止めるのである』と」

 ユダヤ人であったベンヤミンはナチスのために命を落としました。著者は、「進歩」の問題についての最後の言葉は、やはりナチスの被害者であったテオドール・アドルノに任せるべきであるとして、次のようなアドルノの言葉を紹介します。

 「誰もがもうこれ以上お腹をすかせることはなく、拷問はもはやなくなり、アウシュヴッツももうなくなること。こうなったときはじめて進歩思想は、嘘から解放されるのである」

 この言葉に、わたしは深い感銘を受けました。わたしは、やはり人類にとって宗教は必要不可欠なものであると確信します。何だかんだ言っても、宗教とは、とどのつまり人間の救済システムであるはず。

 人間はほんの短い人生の間に老病死や貧困や人間関係など、さまざまな苦悩を抱え、しばしば絶望に至ります。一切の希望の光を見失い、自ら生命を断つ者も少なくありません。そんな危機的状況から救い出してくれて、人々に「生きる意味」を与えてくれるものこそ宗教ではないでしょうか。

 宗教はまた、究極の不安である「死」の不安から人間を解放し、「死ぬ覚悟」を与えてもくれます。つまり、宗教は人間の心を救い、かつ豊かにしてくれるのです。その救いのメカニズムとして、神の観念、聖職者、儀礼、修行といった、実に手の込んだ仕掛けが用意されているわけです。

 どれだけ多様な形式があるにせよ、あらゆる宗教は神や絶対者に最大の価値を置くとともに、人間の心というものにも価値を置いています。「人の心はお金で買える」などと主張する宗教は当然ながら存在しない。いずれの宗教も、心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティへの水先案内人となりえるのです。そして、最終的に平和エンジンとなりえるのも、やはり宗教しかありません。

 「宗教とは何か」。そう問われたら、わたしは迷わずに「人間を幸福にするもの」と答えたいと思います。ローマ法王のイギリス訪問による、カトリックとイギリス国教会の歴史的和解が人類の幸福に少しでも良い影響を与えますように。

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