No.0126 哲学・思想・科学 『ニーチェ 道をひらく言葉』 野田恭子訳(イースト・プレス)

2010.08.01

 ニーチェ道をひらく言葉』野田恭子訳(イースト・プレス)を読みました。

 全部で228のニーチェの言葉が紹介されていますが、わたしの心に響いたものを彼の著作別に紹介したいと思います。

 まずは、主著『ツァラトゥストラはこう語った』より。

 「人間にとっては大地も人生も重い。それが重力の望みだからだ。重力にあらがって鳥のように軽やかに飛び立つには、自分を愛する必要がある。」

 「世界は暗い森、荒くれ猟師の娯楽場というより、私はむしろ、底知れぬゆたかな海だと考えたい。いろとりどりの魚や蟹であふれ、神々さえも心そそられ、みずから漁師となって網を打ちたくなる。それほどまでに世界は奇妙なもの、大きなもの、小さなものであふれている。とくに人間の世界、人間の海はそうだ。私はいま、そこに黄金の釣竿をたれて言う。開け、人間の深淵よ!」

 『力への意思』より。

 「『苦しみは楽しみにまさる』『いや、その逆だ』などと言うのは、もはやあえて意志、目的、意味をもとうとしなくなった者だけである。人生の価値は、苦しいか楽しいかなどというつまらない基準で決まることなど決してない。健全な人間ならばそう考える。たとえ苦しみがまさっていたとしても、力強い意志は存在しうるし、人生を肯定し、求めることができる。」

 「世界を人間的にしよう。つまり、私たちはこの世界において支配者だということをもっと自覚しよう。」

 「ぴりぴりした緊張状態のときや、孤立無援のときは、戦うことだ。戦いは人間をきたえ、筋肉をかたくしてくれる。」

 「神であれ人間であれ、力には必ず、助ける面と傷つける面の両面がある。」

 「天国とは心の状態であって、天上にある国ではない。何年何月何日という特定の日に『くる』わけでもない。きのうはなくても、今日はそこにあるかもしれない。それは『個人の内面の変化』であり、いつでも起こりうるし、いつもまだ起こっていない。」

 『悦ばしい知識』より。

 「笑いというのは、やましさを感じずに他人の不幸をよろこぶことだ。」

 「私は深遠な問題に取り組むとき、冷たい風呂につかるようにさっと入ってさっとでる。それでは充分に深くは潜れまい、というのは、水をおそれる者、冷たい水を嫌う者がつくりだした迷信だ。彼らは体験したこともなしに言っているだけである。こごえるような冷たさは、人を機敏にする。」

 「独立独歩の人生、放浪の旅、波乱にとんだ冒険を求める者は、腹いっぱい食べて不自由なより、食べ物が少なくても自由なほうがいい。」

 『さまざまな意見と箴言』より。

 「人や本に対するもっともするどい批判とは、相手の理想を描き示してやることである。」

 『漂泊者とその影』より。

 「相手がわざとこちらに害を与えた場合、こちらの名誉は必ず傷つけられる。相手はそうやって、こちらをおそれていないことを見せつけたからである。復讐すれば、こちらも相手をおそれていないことを示せる。そうなれば、おあいことなって名誉は回復される。」

 『善悪の彼岸』より。

 「自分の理想を達成した人はみな、そのことによって、すでに理想を超えている。」

 「個人が狂うことはめずらしい。だが、集団、党派、民族、時代は狂っているのがふつうだ。」

 『道徳の系譜』より。

 「人間の意志は目標を必要とする。なにも求めないよりは無を求める。」

 『人間的、あまりに人間的な』より

 「奇跡とされていたものは、実は、さまざまな条件によって起こった複雑なできごとにすぎない。精神的世界でも物理的世界でも、ほとんどいたるところで、人はそのようにうまく説明をつけてきた。」

 『この人を見よ』より。

 「存在するものはすべて取りさるべきではないし、なくてよいものなど一つもない。」

 「私の場合、読書はみな気晴らしで、もはやまじめに考えるようなことではない。あらゆるもののなかでも読書はとくに、私を自分自身から解放し、未知の知識や未知の人たちのなかを散歩させてくれる。まさに真剣勝負からの気晴らしである。」

 本書を読んで、ニーチェとはやはりニヒリズムの哲学者であり、そこには性悪説の香りがすると思いました。「人間なんてロクでもない存在だけど、とりあえず生きなければ仕方ないじゃないか」というメッセージが感じられました。そして、なぜ今、ニーチェとドラッカーがブームなのかが何となく理解できたような気がしました。

 もともと、わたしは、19世紀の「知」はダーウィンとニーチェとマルクスに代表され、20世紀のそれはアインシュタインとフロイトとドラッカーに代表されると思っていました。同じ「知」の巨人であっても、ニーチェとドラッカーは正反対の思想家です。そして、両者の間には哲学者キルケゴールの存在があります。

 近代の「知」というものを語るとき、実存主義の存在を抜きにはできません。実存主義とは何か。それは、自分の主体的な「生の意味」を求める思想だと言えるでしょう。古くはパスカルなどが先駆的な実存主義の思想家かもしれません。しかし、現代思想としての実存主義は、19世紀の二人の思想家からはじまるとされています。

 すなわち、ニーチェとキルケゴールです。二人とも、人間とは主体的に価値を求め生きる存在であることを強調しました。そして、ともにキリスト教批判とニヒリズムの克服を打ち出しました。

 しかし、最終的に神を否定するのか、それとも神を求めるのかという点において方向性が分かれます。二人のそれぞれの方向性は、現代思想の二大潮流となりました。神を否定する実存主義としては、ニーチェからハイデッガー、サルトル、カミュなどへ。神に向かう実存主義としては、キルケゴールからヤスパース、マルセルと流れました。

 わたしは、こころ豊かな社会としての「ハートフル・ソサエティ」を考える上で、キルケゴールという哲学者を重要視しています。彼の哲学が、「世界一幸福な国」とされるデンマークの福祉政策に大きな影響を与えたことはよく知られています。

 キルケゴールは、「死」の問題を突き詰めて考えた哲学者でもありました。1849年に彼が書いた『死に至る病』は、後にくる実存哲学への道を開いた歴史的著作ですが、ちょうど100年後の1949年にある人物がキルケゴールについてのすぐれた論文を書きました。

 その人物とは、なんとドラッカーです。論文のタイトルは「もう一人のキルケゴール  人間の実存はいかにして可能か」でした。ここでドラッカーは、人間の社会にとって最大の問題とは「死」であると断言し、人間が社会においてのみ生きることを社会が望むのであれば、その社会は、人間が絶望を持たずに死ねるようにしなければならないと述べています。そして、思考の極限まで究めたこの驚くべき論文の最後に、こう記しているのです。

 「キルケゴールの信仰もまた、人に死ぬ覚悟を与える。だがそれは同時に、生きる覚悟を与える。」(上田惇生訳)

 「ハートフル・ソサエティ」とは、「死」を見つめる社会であり、人々に「死ぬ覚悟」と「生きる覚悟」を与える社会です。それは「死」という人類最大の不安から人々が解放され、真の意味で心がゆたかになれる社会です。

 このように、キルケゴールからドラッカーへと続く流れの上に、わたしの「ハートフル・ソサエティ」のビジョンは描かれているのです。

 キルケゴールもニーチェと同じく「生きる意味」を求めました。しかし、ニーチェのように性悪説には向いませんでした。キルケゴールの影響を受けたドラッカーにおいて、性善説は明白になっています。

 いま、なぜ、ニーチェとドラッカーが多くの人々、それもビジネスマンに読まれるのか。それは、とどのつまり彼らが「生きる意味」を求めているからに他ならないでしょう。「生きる意味」を求める人々が、性善説と性悪説に二極化している。『善悪の彼岸』を書いたニーチェは、「善も悪も乗り越えた哲学者」などと呼ばれます。

 しかし、人間は、やはり「善」を志向しなければならない存在であると思います。それが、人間にとっての「生きる意味」ではないでしょうか。わたしには、そのように思えてなりません。

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