No.0136 神話・儀礼 『神話が考える』 福嶋亮大著(青土社)

2010.08.11

 神話が考える』福嶋亮大著(青土社)を読みました。「ネットワーク社会の文化論」というサブタイトルがついています。

 著者は中国近代文学を専門としながら、「思想地図」や「ユリイカ」といった雑誌に論考を寄稿している若き評論家です。

 「はじめに」によると、本書の目的は「社会における『神話』の機能を、もっぱら日本のサブカルチャーやネットカルチャーを素材にしつつ、場合によっては英語圏の一部の古典的な文学まで織り交ぜて示すことにある」そうです。本書で最初に目を引いたのは、現代が一種の「部族社会」に近づいているというくだりでした。著者は次のように述べます。

 「揺るぎない世界を失った現代人は、自分たちにとっての安全の場(仲間意識が通用する世界)を維持しなければならず、そのことは結果として、社会が無数の部族的なまとまりに分散していくことに繋がる。その点で、今日の最も支配的な主張の一つが、『地域主義』であることに疑いを入れる余地はない。実際、私たちの生活の実情に即して、最低限の相互理解あるいは相互扶助の空間を確保しなければ、社会は立ち行かないだろう。それゆえ、現代においては、グローバル化やユビキタス化が進む一方で、だからこそ空間の価値が上昇しているようにも見える。」

 また、「機動戦士ガンダム」の一連のシリーズが「喪の作業」となっているという指摘も、なかなか興味深かったです。擬似ドキュメンタリー映画「クローバーフィールド」を題材にした箇所も刺激的です。著者は、わたしたちがいる機械的環境において「リズム」というものが看過できない重要性を帯びているとして、次のように述べます。

 「リズムの重要性は、インターネットの台頭によってはっきりしたと言うべきだろう。これまでであれば、マスメディアが日単位で情報を一括して配信していた。日刊紙(ジャーナル)の刻むリズムがあるおかげで、世界へのひとびとの注意がひとまず維持される。べネディクト・アンダーソンは、新聞や出版が国民国家という『想像の共同体』を構築すると論じたが、国民という巨大な共同性は、定期刊行物がひとびとの想像力の発動と生活リズムを同期させてくれるからこそ成り立つシステムなのである(特に、近代人にとっては新聞が『朝の礼拝』のかわりになったというヘーゲルの指摘は重要である)。」

 「メディア」についても、著者は次のようにユニークな解釈を述べます。

 「今、『メディア』の名に値するのは、国境や言語を超えるクレジットカード、すでに各国の風景を構成しているコンビニやファストフード、あるいは共通の『ノリ』を与えるポップ・ミュージックなどだろう。これらのメディアは、別にメッセージを発信しているわけではなく、ただある瞬間他人と時間的な波長を合わせるためのきっかけにすぎないが、今はその類のメディアこそが物を言う。実際、海外観光でも、クレジットカードで事足りるのであれば、それは『世界』として知覚される。逆に、カードを使えない場所で買い物しようとするならば、そこでは別のコミュニケーション技術(言語や風習)を学ばなければならない。それができない人間は『世界』から疎外されている。」

 こうして見ていくと、今後「想像の共同体」の名に値するものは、著者が予想するように、国民国家をベースとするだけでなく、市場と結びついたメディアによっても仮想的に構築されていくのでしょう。

 「神話としての『遠野物語』」という論考も注目に値します。著者は、柳田國男の『遠野物語』について、次のように述べます。

 「『遠野物語』を単純に古くさい伝承の塊として読むことはできない。それどころか、そこには各地の文物の往来のなかで揉み込まれた情報が、一種の『データベース』として記録されている。『遠野物語』には、ザシキワラシ、オシラサマ、オクナイサマ、ゴンゲサマ、カクラサマなど、他ならぬこの作品によって有名になった神(精霊)の他に、江戸時代に都で流行っていた河童や天狗までもが登場する。つまりそこでは、柳田の時代の東京の文化人にとっても馴染みやすかった妖怪のデータベースと、まったく未知の辺境の世界に保存されていたデータベースとが混在しているのだ。『遠野物語』におけるエピソードの並置は、結果として、あたかも遠く隔たった空間的な差異を圧縮するような効果を持った。」

 著者は、『遠野物語』が柳田の文学的創作ではなく、彼が神話的なるものを受け取った点に注目します。同じく柳田の名著として知られる『海上の道』と一緒に取り上げ、著者は次のように述べています。

 「柳田國男の『受動性』には何かしら本質的な意味合いがあることが察せられる。たとえば、柳田は晩年の『海上の道』(1961年)ではまさに、南島を中心にした方位学的な神話(日本人の南方起源説)を語っていたが、そのときでさえ、彼の筆致は有名な『椰子の実』の挿話に、つまり海の向こうから流れ着いたモノに引き寄せられざるを得なかった。私たちの内奥の感覚を煮詰めていっても、それはおそらく何ら創作上の根拠には結びつかない。仮に創作の出発点があるとすれば、それはあくまで、向こう側からやってきたものに応答することによってである。少なくとも『遠野物語』から『海上の道』に到る柳田の文学性には、そのような受動性が刻み込まれている。」

 そういえば、日本最古の神話とされる『古事記』を暗誦したのは稗田阿礼ですが、彼も受動性の人でした。

 著者は、戦後日本の純文学の歴史にもふれます。これまで、三島由紀夫、大江健三郎、中上健次といった作家が高評価を受けてきましたが、彼らはいずれも古典的な文芸に遡り、古い集団言語を再利用することによって神話を構築してきた作家でした。著者は、次のように述べています。

 「戦後日本の純文学の主流が、ある時期から何らかの集団言語に、つまり神話に深く依存し始めたというのは、それ自体興味深いことである。純文学と言うからには、やはり何らかのかたちで『世界』を描かなければならない。しかし、何度も繰り返しているように、今日の世界は、高度に複雑化し、また予測不可能な偶然の出来事に満ちている。したがって、その世界全体をそのまま再現しようとするとたいていは躓いてしまう。ただ、そこかしこに偶然の穴が開いた世界の模型をつくることーー原寸大とは言わずとも、世界同様に穴に満ちた擬似世界を用意することーーはあながち不可能ではないだろう。その際に、今挙げた作家たちは、それぞれに異なる集団言語を参照することによって、擬似世界を造形したのである。」

 ここに、一人の神話作家、あるいはメタ神話作家として、文学に一つの指針を与える才能が登場します。村上春樹です。彼の作品世界は基本的に幻想文学であるとわたしは思っていますが、著者はそれを神話と関連づけて、次のように述べます。

 「村上春樹の小説の世界は、私たちの生活に深く沈殿した寓話性の強い神話素と、グローバルに流布するマスプロダクツ(商品)の組み合わせによってできている。一般的に言って、初期の村上は、表層的な消費社会を描いた、一種の風俗作家として理解されることが多い。それが、1990年代に入ると、徐々に前者の、寓意性の強い神話素が表に出てくるようになる。特に、1994~5年に書かれた長編小説『ねじまき鳥クロニクル』は、井戸やあざのような神話素を巧みに活用していたし、2009年に発表された『1Q84』でも、月や豆といった神話素が何度も登場し、場面をスイッチする役割を果たしていた。村上春樹は、私たちが日常見慣れている事物の世界を前提としている。だが、物語が進むにつれて、その見慣れた神話素を梃子にして、まったく別の記憶が流し込まれることになるだろう。」

 つまるところ、世界が神話素を求めているのでしょう。いや、人間が神話そのものを求めているのです。鎌田東二氏ともよく語り合うのですが、人間とは神話と儀礼を必要とする存在です。神話素に接すると、ワクワクし、心が高ぶるのは、そのせいに違いありません。本書は、まさに「神話の社会学」と呼ぶべき内容でした。

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