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夜行観覧車』

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No.0141

 

 夜行観覧車』湊かなえ著(双葉社)を読みました。

 

 著者は、映画化もされた大ベストセラー『告白』(双葉文庫)で第6回本屋大賞を受賞したことで知られています。本書は、今や「時の人」となった著者の最新作で、「衝撃の『家族』小説」というふれこみです。


 本書の帯の裏には、簡単な「あらすじ」が書かれていますので、ネタバレにはならないと思いますが、この小説の冒頭、ある高級住宅地で殺人事件が起きます。人もうらやむエリート一家で起きたその事件の被害者は父親で、加害者は母親でした。夫婦には3人の子どもがいましたが、彼らはどのように生きていくのか。その家族と、向かいに住む家族の視点が、次第に事件の動機と真相を明らかにしていきます。現代の世相を反映した非常に暗い物語ではあるのですが、最後には希望の光のようなものが射し込みます。

 

 正直言って、わたしの予想とは大いに違った小説でした。わたしは映画「告白」があまりにも救いのない物語でしたので、原作の『告白』はまだ読んでいないのですが、少々この著者のことを誤解していたようです。わたしは、ある大手出版社の編集者が「『告白』は反社会的な小説。湊かなえが今後どれだけ売れっ子になろうが、自分は絶対に原稿依頼しない」と言っているのを聞いたことがあります。そのとき、映画の印象とも相まって、著者のことを快楽殺人作家というか、アンモラルな題材を好んで取り上げる人ではないかと思っていたのです。


 しかし、本書『夜行観覧車』を読んで、それは間違った思い込みであると知りました。著者は、「悪」を憎む人です。そして、「卑劣」を憎む人です。事件後、3人の子どものうちの長男である良幸はネットで事件に関するブログを覗いてみます。そこでは、匿名ブロガーたちが面白おかしく、実名で当事者の家族を誹謗中傷していました。著者は、良幸の心中を以下のように書いています。


 空っぽの胃袋から胃液がこみ上げてきた。

 何だ、これは。こいつらはいったい何者なんだ。

 良幸の周囲にもブログをやっている者はいる。映画や音楽の感想とかを日記がわりにね、とそいつは言っていたが、これが日記なのだろうか。ナルシストが駄文を書き連ねているうちに、評論家にでもなったつもりでいるのではないか。

 父親が、母親が、自分の家族が、こいつらに何の迷惑をかけたというのだ。

   (『夜行観覧車』第四章「高橋家」より)


 人間の「悪」を描かせたら当代一流である著者は、他人を中傷するブログを匿名で書き込むという卑劣な行為こそ現代社会を代表する「悪」であることを見事に暴いています。そして、本書には、もうひとつ卑劣な行為が登場します。

 

 事件が起こった家に「死ね!」「人殺し!」「恥さらし!」「出て行け!」「一家心中しろ!」といった中傷ビラを貼ったり、石を投げて窓ガラスを割ったりする行為です。これらの行為に対する深い嫌悪と静かな怒りが、著者の淡々とした文章から滲み出ているように感じました。


 本書を読んで、著者は荀子のような人ではないかという感想を持ちました。そう、孟子と並んで孔子の思想的後継者とされ、「性悪説」を唱えたことで知られる古代中国の思想家です。

 

 孟子は「性善説」を唱え、人間は誰しも憐れみの心を持っていると述べました。人間は、生まれながら手足を四本持っているように、「仁」「義」「礼」「智」という四つの心の芽生えを備えているのだと述べました。孟子は「人間の本性は善きものだ」という揺るぎない信念を持っていたのです。


 しかし、この孟子の性善説では、悪の起源を説明することが困難です。人間の本性の中に悪の性質がまったくないのであれば、どんな劣悪な環境にあっても、人間が悪を働くことはありえないからです。

 

 孟子の「性善説」に対して、荀子は「性悪説」を唱えました。荀子いわく、人間は放任しておくと、必ず悪に向かう。この悪に向かう人間を善へと進路変更するには、「偽」というものが必要になる。

 

 「偽」というと「偽造」とか「偽装」などの言葉を連想しますが、本来はけっして「偽り」という意味ではありません。「偽」とは、字のごとく「人」と「為」のことです。すなわち人間の行為である「人為」を意味します。具体的には、礼であり、学問による教化です。なお、この「偽」を排して自然な生き方を提唱した人物こそ、道家の代表とされる老子でした。


 よく荀子の性悪説は誤解されます。すなわち、悪を肯定する思想であるとか、人間を信頼していないニヒリズムのように理解されることが多いですが、そんなことはまったくありません。荀子の性悪説とは、人間は放任しておくと悪に向かうから、教化や教育によって善に向かわせようとする考え方なのです。

 

 人間は善に向かうことができると言っているのですから、性悪説においても人間を信頼しているわけです。ユダヤ教やフロイトが唱えた西洋型の性悪説とは、その本質が根本的に異なっているのです。孟子の性善説にしろ、荀子の性悪説にしろ、「人間への信頼」というものが儒教の基本底流なのです。とはいえ、人間の主体性を信頼せず、法律で人民を縛る法治主義を唱えた韓非子や李斯といった法家の巨人もまた、荀子の門人でした。

 

 中国を初めて統一した秦の始皇帝は、韓非子や李斯の意見を取り入れましたが、「焚書坑儒」として知られる儒教の大弾圧を行ったことで知られます。しかし、始皇帝に影響を与えた法家の師である荀子は、漢代において孟子よりも儒教の正統とされたのです。湊かなえ氏が現代の荀子であるなら、彼女を根底から支えるものは、やはり「法」というものではないかという気がします。


 それから、本書のタイトルにもなっている「夜行観覧車」は、まったく本文には登場しませんでした。と思っていたら、最後の最後に、終わりから数行目にところで突如として登場しました。事件の舞台となった高級住宅地の周辺の海の近くに日本一の高さの観覧車ができるというのです。

 

 小島さと子という有閑マダムが、なかなか実家に帰ってきない息子に、その観覧車が完成したら一緒に乗ろうと誘います。さと子は、息子にこう言います。

 

 「長年暮らしてきたところでも、一周まわって降りたときには、同じ景色が少し変わって見えるんじゃないかしら」

 

 なかなか含蓄の深い言葉ですね。


 さと子という女性は、いわゆる「お節介おばさん」です。近所の家庭でトラブルが発生し大声が聞こえてきたときなどは、必ずその家を訪問し、チャイムを鳴らして中の様子を伺います。そんなお節介は、当然ながら近隣の人々からは疎まれます。でも、彼女は、この住宅地を誰よりも愛しているのです。愛する高級住宅地で変な事件などが起こってほしくないのです。

 

 その彼女のお節介が、ある家の悲劇を防ぎ、一人の命を救います。もちろん彼女の心にあるものは純粋な「隣人愛」などではなく、「住民エゴ」なのかもしれません。でも、彼女の行動が人の命を救ったことも事実なのです。この自分が住む住宅地に異常なまでの愛着を抱いているさと子なら、老人の孤独死だって、子どもの置き去り死だって、持ち前のお節介で食い止めるでしょう。つまり、地域社会には「お節介」というものも、ある程度は必要なのではないでしょうか。

 

 わたしは、本書は現代日本を象徴する「家族小説」であるとともに「隣人小説」でもあると思いました。そして、究極のところで人間を信頼している著者の姿に感動しました。買ったままで読まずにいた『告白』を読んでみたくなりました。