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一粒の麦』

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No.0148

 

 『一粒の麦』賀川豊彦著(今吹出版社)を読みました。

 

 表紙の絵は、日本を代表する洋画家である小磯良平の作品です。書名は、『新約聖書』「ヨハネ伝」第12章24節の言葉に由来します。

 

 「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてありなん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」という、あまりにも有名な言葉です。


 本書『一粒の麦』は、『死線を越えて』から9年後の1931年(昭和6年)に書かれた長編小説です。小林多喜二の『蟹工船』が出版された年ですね。貧しい山村に住む、貧しい人々の過酷な現実が書かれています。

 

 主人公は山下嘉吉という19歳の少年ですが、彼の父は前科二犯の出獄人、兄も巡査殺しの死刑囚、二人の姉は娼妓に売られ、弟は生まれつき背骨が曲がった身体障害児という、これ以上ないほどの過酷な運命の下で生きています。

 

 しかし、その嘉吉をはじめ、貧しい人々いかにその貧困を乗り越えて、人間らしい生き方に目覚めていくかを感動的に描き出しています。父と兄が酒乱であったために苦しんだ嘉吉が、禁酒会例会の席上で述べた次の言葉が本書を貫く思想となっています。

 

 「日本の急務は土を愛することと、隣を愛することと、神を愛することの三つであって、この三つを実行しなければ国は滅びる」


 著者の賀川豊彦は、当時の不況に悩む農民を救うために、より合理的な農村経営を考えます。その結果、田畑の作物だけでなく、果樹栽培や牧畜を取り入れた新しい農業のあり方を「立体農業」と名づけて、それを提唱します。本書は、その立体農業というものを小説に盛り込んだメッセージ性の強い作品と言えます。

 

 わたしは賀川豊彦とほぼ同時代人である宮沢賢治のことを連想しました。賢治も貧しい農民たちを救うべく、羅須地人協会を設立し、「農民芸術概論綱要」などを著しました。しかし、賢治がその高い理想を現実の世界で実現できたかというと、残念ながらほとんど実現できなかったと言ってよいでしょう。

 

 一方の賀川豊彦は、立体農業を提唱、推進し、さらには農民の豊かな生活のために現在の「JA共済」などを立ち上げて成功させました。賀川豊彦は、高い「志」とともに、それを現実のものにしていく「実行力」を併せ持っていたのです。しかも彼の志は、農民の生活の向上にとどまらず、あらゆる社会の底辺で苦しむ貧しい人々の生活向上にありました。

 

 彼は本書『一粒の麦』で農村問題を扱った後、『海豹の如く』で漁村問題を、『その流域』で教育問題を取り上げ、『第三紀層の上に』を加えて四部作をまとめました。賀川豊彦の著書は、つねに彼の社会思想と結びついた教化・啓蒙の書だったのです。


 著者は、彼らを貧困から脱出させる道として、人々が協力して共に生きる工夫としての協同組合というものを本書の最後で紹介しています。

 

 ベストセラー作家・賀川豊彦は、日本を代表する組合のオーガナイザーでもありました。彼は労働組合、生活協同組合(生協)、農業協同組合(農協)など、じつに多くの組合組織を立ち上げ、育ててきました。

 

 評論家の大宅壮一は、かつて「およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると言っても、決して言い過ぎではない」と述べました。しかし、彼はいわゆる何にでも飛びつく、いわゆる「ダボハゼ」ではありませんでした。彼の多くの活動や多くの事業の源にあったものは、キリスト教の伝道でした。もちろん若い頃は路地伝道などにも努めましたが、キリスト教の伝道のために、賀川豊彦は本を書き、多くの社会運動を手がけ、事業を起こしていったのです。


 その姿は、わたしの目指す「天下布礼」の道に通じるものではないかと思います。もちろん、わたしごときを賀川豊彦と比べるなど不遜の極みであると承知しています。

 

 わたしは冠婚葬祭会社を経営するのも、本を書くのも、大学で教鞭を取るのも、隣人祭りの開催などをサポートするのも、すべては「人間尊重」の思想を広く世に広めるという「天下布礼」の精神で行っています。賀川豊彦も、多様な活動を「人間回復」「人間解放」「人間建設」のために行ったと自身で明言しています。ならば、賀川豊彦の人生とは「天下布礼」そのものの生き方であったのではないかと思います。

 

 「礼」とは儒教のコンセプトであり、キリスト者であった賀川豊彦には当てはまらないという人がいるかもしれませんが、それは違うと思います。孔子が唱えた「礼」とは、つまるところ「人間尊重」ということです。賀川豊彦が信仰したイエスの教えである「人間回復」「人間解放」「人間建設」なども、結局は「人間尊重」ということです。すなわち「人間尊重」とは、儒教もキリスト教も超越した人類の普遍思想なのです。それを示すものとして、本書には主人公の嘉吉がキリスト教の信仰に目覚めた後の心境を次のように書いています。

 

 「今まで馬鹿に思われていた忠孝の道とか、仁義礼智信とかの符号のように教えられた修身の道が、まことに容易魂の工夫であることに気付くようになった。」


 さて、「礼」は「儀礼」の問題に直結します。冠婚葬祭とは「人間尊重」そのものであるというのはわが持論ですが、本書にも結婚式や葬儀の場面が登場します。まず、農民の「組合結婚式」というものが出てきます。これについては、登場人物の一人が次のように説明してくれます。

 

 「土地利用組合員がさ、会費三十銭くらいづつ出し合って、結婚式をみんなで祝うんですよ。そうすれば、贅沢な着物は要らないし、みんなが心から祝うことは出来るし、無駄は省けるしさ、まあ一挙両得だというわけですな」

 

 おそらく、後の「新生活運動」などの先駆けとなった考え方ではないでしょうか。本書の終わりに実際に村の小さな教会で行われた結婚式は、土地利用組合員のみならず、労力出資組合員、産業組合員なども参加します。この小説には、じつに多くの種類の組合が登場するのです。さらには、禁酒会員や教会員なども集まり、一人20銭の会費で仲間の結婚を祝います。

 

 鍛冶屋のおかみさんが田舎には珍しい四部音譜でオルガンを弾き、近所の農家の温室で咲いた薔薇の花を講壇の上に飾り、労力出資組合の乙女たちが賛美歌を歌います。そして、村野先生という教会の神父が厳粛な口調で『聖書』を開き、性に関する教訓を「エペソ書」5章から若い男女に読み聞かせ、宣誓の式を始めるのですが、そのときの言葉がなかなか心に響きます。次のような言葉です。

 

 「結婚は遊戯じゃありません。神が人類を進化させるために設けられた特殊なる道であります。これを乱すものは人類を呪うものです。でありますから、一方が病気になっても、また貧乏することがあっても、どんなに人から批難されることがあっても、互いに疑わないで愛し合わなければなりません。」


 次に葬儀ですが、ハンセン病にかかって動けなくなった男の妻が二人の子どもを残して亡くなります。この女性の葬儀のことが簡単に触れられていますが、嘉吉は後からその話を聞いて、自分の村にそんな気の毒な人があることを初めて知って、その人の境遇に心から同情します。嘉吉は、その女性を看取ったという医師の栗本に「先生、そのお上さんが死んだの、いつなんですか?」と質問します。栗本先生は次のように答えました。

 

 「もう、かれこれ一週間にもなりますかなア。死んだ時は葬式代もないので、うちからも少し持って行くし、近所の者も金を集めてあげて、ようやく形ばかり葬りはしたんですがな。後に遺っている八歳と五歳になる二人の男の子は、かわいそうに、当分の間は死んだ時にもらったお供物なんかあるので、どうにかこうにかやっていけるでしょうが、もう、そろそろ困っているでしょうなア。何しろ子供が小さいのでかわいそうですよ。上の子は今年の四月から小学校に行かなくてはならんのだが、寄留さえしていないので、そのままになっているし、もうああなると、あの八つになる子がお父つあんの手助けをしてあげんと、糞便の世話にさえ困るでしょうからなア。あれで癩病でもなければ非常にし易いんだが、癩病はみんなが嫌いますからなア」

 

 読んでいるだけで涙が出てくるような文章ですが、その後、このハンセン病患者も二人の子供たちも生き延びます。教会の村野先生や嘉吉が、この気の毒な家を定期的に訪れ、食事の世話をはじめ、掃除をしたり病人の膿だらけの包帯を替えたりしたからです。また、ハンセン病が伝染することを怖れた村の人々も、食料だけは差し入れてくれました。

 

 わたしは本書を読みながら、思わず、大阪の幼児置き去り死事件で亡くなった桜子ちゃんと楓ちゃんのことを連想しました。昭和初期の極貧の村において、さらに困っている者はみんなで助けるという習慣があったことに、わたしの胸は熱くなりました。社会復帰が困難な病人、世話をする者がいない幼児、そのような弱者を救済するシステムが当時の地域社会には残っていたのです。「土を愛し、隣を愛し、神を愛する」という著者のメッセージが強く心に響いてきました。


 最後に、本書には残念な箇所もありました。貧しい人々や弱い人々への温かいまなざしに満ちた作品であるにもかかわらず、職業に対する差別意識が見られたことです。具体的には、火葬場で働く人々に対する差別です。

 

 本書では、「隠坊」という現在では差別用語となっている言葉が使われています。主人公の嘉吉の妻となった芳江という女性の実家が「隠坊」であると中傷する者がいて、近所で噂となり、姑である嘉吉の母がそれを本人に問いただす場面などが出てきます。それに対して、芳江は「私の家は士族ですよ」と言い返します。そのやりとりにおいて、職業蔑視や差別に対する著者の怒りなどはまったく見られません。それどころか、著者もそういった差別意識を共有しているとしか思えません。

 

 明治学院大学名誉教授で賀川豊彦記念松沢資料館館長の加山久夫氏は、共著『賀川豊彦を知っていますか』(教文館)において、「賀川豊彦もまた時代の子として、時代的制約のもとにありました」と述べています。

 

 賀川豊彦は当時主流であった優生思想に立ち、1915年(大正4年)出版の著書『貧民心理の研究』には被差別部落の人々への差別的見解や表現が見られるそうです。そのため、2009年に賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会は、その発足時に「賀川豊彦には時代的制約として、被差別部落に対する意識に過ちがあったことを認め、このことを十分に認識した上で」記念事業を行うことを確認したそうです。人間の解放をめざした賀川豊彦にそんな差別意識があったとは、まったく意外です。

 

 大正時代最大のベストセラー作家でありながら、著作がまったく出版各社の文庫のラインナップにも入っておらず、完全に忘れられた作家となっている現状は、そのあたりにも原因があるのかもしれません。

 

 しかしキリスト教伝道者として、賀川豊彦がさまざまな方法によって「隣人愛」の実践に励んだという歴史的事実だけは忘れてはなりません。