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文学フシギ帖』

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No.0152

 

 文学フシギ帖』池内紀著(岩波新書)を読みました。「日本の文学百年を読む」というサブタイトルがついています。

 

 ドイツ文学者である著者が、2006年1月から4年あまりにわたって「北海道新聞」紙上に連載したエッセイを集めた本です。


 「はじめに―フシギ入門」に出てくる冒頭の言葉から、いきなり魅了されます。

 

 「人間がつくり出した道具のなかで、本はもっとも驚くべきものだと作家ボルヘスが述べている。ほかの道具類はいずれも、人間のからだの一部が拡大、延長したものでしかない。望遠鏡や顕微鏡は目の拡大であり、電話は声、鋤や剣は腕の延長というものだ。これに対して書物は記憶と想像力の拡大、延長にあたる。だからこそ他のものとくらべても、きわだった性格なり特徴をそなえている」

 

 そう、書物とは記憶と想像力に関わるもの。つまりは、人間の「こころ」そのものに関わるものなのです。わたしは、本というものは「こころの王国」への入口であるといつも言っているのですが、その思いを強くしました。


 また、著者は次のようにも述べています。

 

 「愛の本、恋の小説、ミステリー、戦争もの、歴史小説、旅の本、歌の本、悪者の物語、死の本、謎とき、ドタバタ、ハチャメチャ、幻想、パロディー、時代小説、言葉遊び、文化史もの、博物誌、伝記、講話、地学の本、ヤクザもの、人生相談風、イロごとの手引き、心理小説・・・・・・。ざっと思い浮かべただけで、おそろしく多岐にわたる。どの場合にも想像力のはたらきがないと文学にならない。しかもしばしば名作といわれるものは、言葉で表現できないものをめざし、表現させないものに挑みかかり、言葉をこえたものを言葉の世界に引きもどした成果である。どれほど先端科学が進歩しようとも、そんな芸当のできるのは文学にかぎられる」

 

 そんな芸当ができる文学の世界の住人たち51人の、ちょっとしたエピソードを集めたのが本書です。鴎外や漱石などの明治の文豪から現代作家まで、その顔ぶれはバラエティに富んでいます。特にわたしの琴線に触れたのは、三島由紀夫、澁澤龍彦、それから村上春樹についての3編でした。


 まず、三島由紀夫です。彼は『作家論』を自分で編集しましたが、その冒頭に「森鴎外」を収めています。その鴎外論は、「森鴎外とは何か?」という一行で始まっています。著者の池内氏は次のように述べます。

 

 「三島由紀夫によると、鴎外が『日光の下に種々の植物が華さくやうに』と書くとき、すでに読者は鴎外独特の『フレイグランス(芳香)と音楽』のとりこになっている。そこに匂い立つのは、ただの芳香ではない。現実から抜きとられ、『一度大理石によって濾過された花』、その花のもつ明晰な芳香だというのだ。

 つまるところ論をかりて一つの羨望を述べたかのようである。ヨーロッパの『華』である宮廷文化に立ち会って、その『みやびなる宴』に身を置く幸運をもった唯一の日本人への身を灼くような羨望」

 

 『作家論』の「あとがき」の日付は、「昭和四十五年十月」となっているそうです。衝撃的なあの自決の前月であり、池内氏は「もしかすると当人が編んだ最後の本は、遺書にも似た性格をもっていたかもしれない」と推測します。そして、「二十世紀の貴族主義者は、多少ともコッケイな自家製の制服を着て、自衛隊庁舎のバルコニーに立ち、自作自演の宴ののちに腹を切った」と書いています。


 それから、三島由紀夫の盟友でもあった澁澤龍彦については次のように書いています。

 

 「澁澤龍彦は少年のヴィジョンを失うことなく成熟した数少ない大人の一人だった。アリストテレスが『哲学の始まり』とよんだあの驚異の感覚である。

 若いころから『異端の作家』などといわれた。フランスの異端サド侯爵の紹介が皮きりで、以後、自動人形、怪物、遊戯機械、畸型、幻想都市、偏愛の作家たちをめぐって語りつづけた。そこにつらぬいているものをひとことでいうと、いつも新鮮に驚くことのできる能力だろう」

 

 澁澤についてのエッセイの最後には、著者は次のように書きました。

 

 「ノドにできた腫瘍を切り取るために入院したとき、クスリのせいで幻覚を見た。それを『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』と題して詳細に書きとめた。かぎりなく死に近づくなかで、自分の意識が見せるフシギな現象に目を丸くして見とれていた。それこそ、この人のもっとも得意とするところだった」

 

 わたしも大の澁澤ファンですが、この著者の澁澤龍彦に対する見方は、非常にシブサワの本質をとらえており、しかもシブサワへの愛に溢れていると思います。


 最後に、村上春樹についてです。著者は次のように書きます。

 

 「村上春樹は『風の歌を聴け』でデビューしたが、そこにはタイトル以上の意味があった。この作家を待ってはじめて、風のように軽い言葉が日本の文学に市民権を得た。それまで文学は、ひたすら重い言葉でつづられていた。軽いだけでなく、それはまた風のように自由である」

 

 『蛍』の二人は、コートのポケットに両手をつっこんだまま歩いていきます。そこへ村上春樹は、「時々彼女は何の理由もなく、僕の目をじっとのぞきこんだ。そのたびに僕は悲しい気持になった」と書くのです。著者いわく、こんなふうに文学がつづられたのは前代未聞のことであるといいます。無色無臭にして重力に縛られない言葉だけでなく構成も同じように軽やか。

 

 『蛍』は5年後に『ノルウェイの森』になります。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では1冊の中に2つの小説が収まっていて、それぞれの主人公たちがそれぞれの行動をとったあげく、ラストは見事に1つの小説に収束されてゆくという自由さ。著者は、このエッセイの最後で次のように述べています。

 

 「言葉の性質がまるきりちがうのだ。ここでは言葉が動作やセリフをつたえても、ドラマをつくるものではない。そのような劇的要素は磨いたガラスのように拭いとられており、そしてきれいなガラスを通すように見えてくるものがある。ひとことでいうと関係であって、『対』の関係。すなわち南半球と北半球、静止と動き、こちら側とあちら側、生と死、始まりと終わり、そして1984と1Q84、この自由な作家は、こともなく9をQに変えられる」

 

 9をQに変えることを「自由」と表現する著者の文学への情熱、そして書物への愛情が満載の本書もまた、かぎりなく自由な書物であると感じました。