No.0113 死生観 『「生」と「死」の取り扱い説明書』 苫米地英人著(KKベストセラーズ)

2010.07.12

 「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人著(KKベストセラーズ)を読みました。

 これはまた、もの凄いタイトルの本ですね。帯には大きく「一人一宇宙。不滅の命。」というキャッチコピー。

 そして、「科学は死を正確に定義できない。宗教は妄想。では、私たちは死をどう捉えればいいのか―。すべての不安と悩みが消え人生が輝き出す!ドクター苫米地が初めて語る『生』と『死』。」というコピーが書かれています。

 本書の「はじめに」には、いきなり次の一行が!

 「あなたは、いつか、必ず、死にます。」

 それなのに、みんなが死ぬことを恐れます。わたしたちは、恐怖を感じようにも死ねば意識そのものがなくなることを知っています。それなのに、なぜ死に対して怯えるのか。著者は、その最大の理由を「自分がこの世から消えてなくなる」こととし、次のように述べます。

 「どうやら、この『自己喪失感』が『死の恐怖』の正体のようです。この『自己喪失感』を分析してみると、一つは『自分という存在そのものが消えてなくなること』、もう一つは『自分という存在の価値がこの世から消えてしまうこと』、この二つがあることがわかります」

 この二つとどう向き合うかを考えるのが、本書のテーマです。「はじめに」の最後で、著者は「死を考えることは生を考えることです。生なくして死はあり得ません」と述べた後、次のように言います。

 「死を考えることで、明日からの生き方が劇的に変わることを実感されるはずです。それは、死への恐怖や不安を克服するというだけではありません。人生に輝きが生まれ、生きる価値を見いだし、ポジティブな思考を手に入れることができるのです」

 著者は、まず宗教について語ります。「死」とは何かという問いに対して、古今東西の多くの人々が思考を重ね、さまざまな解答を出してきました。その多くは「宗教」という形で、今日まで残っています。著者は、「現代において、生と死を考えない宗教はまずあり得ません。その意味で、宗教は死の専門家なのです」と述べています。そして、死者を忌み嫌う日本人に大きな影響を与えた宗教として、仏教とともに儒教を取り上げ、著者は次のように述べます。

 「儒教というのは、シャーマニズムです。孔子の母親はシャーマンでした。日本も卑弥呼がシャーマンとして有名です。天皇家ももともとはシャーマンでした」

 ここまでは良いのですが、ここから先の発言がちょっと疑問です。

 「昔は、政治的リーダーと社会的リーダー、宗教的リーダーが同じでしたから、リーダーである以上、自分の家系が最も尊いという論理を受け入れざるを得ません。あるいは、積極的に利用したのかもしれません。いずれにしても、シャーマニズムは自動的に先祖崇拝の思想となるのです。
 残念なことに、先祖崇拝は儒教という高度に洗練された差別主義を生んでしまいました。シャーマンである国家のトップの先祖が最も偉く、家系を継ぐ権利は明確に規定され、長男が一番で、次男が次、以下、三男、四男・・・・・となります。
 シャーマニズムは、あの世の権力もこの世の権力も、両方ともシャーマン個人、あるいはその家系が独占しています。あの世の権力とこの世の権力との区別がありません」

 儒教に対する著者の見方は、残念ながら「浅薄」と表現するしかありません。著者の儒教理解の浅さは、『テレビは見てはいけない』(PHP新書)でも感じました。儒教だけではなく、シャーマニズムについても、いや宗教そのものについても著者の見方がいかに偏っているか、次の発言を見ればわかります。

 「この世の権力とあの世の権力をはっきりと分けるというのが、近代宗教の大きな特徴です。分けられていないものはシャーマニズムという未開の文化ということになります」

 シャーマニズムという未開の文化!このような進歩主義的な宗教観こそ、ユダヤ・キリスト教に代表される一神教的なものです。今時、こんな前近代的な宗教観を堂々と述べる人物がいたとは驚きです。著者は、本当にチベット仏教を修行したのでしょうか?

 著者に限らず、儒教ほど誤解されている宗教はないのではないでしょうか。多くの人は、高級官僚をつくるための教養を与える宗教であるとしか思っていません。中には儒教は道徳であり、宗教ではないという人もいます。しかし、儒教くらい宗教らしい宗教はありません。宗教の大きな目的の一つが魂の救済であるとするなら、儒教はそれに大きく関わっています。

 中国の世界観では、人の魂には「魂(こん)」と「魄(はく)」があるとされます。人が死ぬと、魂は天に昇り、魄は地に潜る。そして、子孫が先祖を祀る儀式を行えば、天と地からそれぞれ戻ってきて再生すると考えられているのです。中国人にとって最大の不安は、子孫が途絶えてしまうことです。なぜなら、もし子孫が途絶え、先祖である自分を祀る儀礼を行ってくれないとしたら、わが魂と魄は分裂したままさまよい、永遠に再生できないからです。本当の意味で、自分は死んでしまうのです。

 ならば、どうすべきか。天下の乱れをなくしてしまえば、そのような事態を未然に防げると考えたのです。人々がみな幸福に暮らしていれば、家が絶えるという不幸な事態も起きないと考えたのです。そこで儒教では、政治を重んじました。正しい政治が行われることによって、生者のみならず死者もが救われるというのが儒教の思想でした。

 「儒」という文字にその思想が込められています。後漢の許慎が完成した『説文解字』は最も権威ある文字の解説書とされます。それによると、儒とは「柔なり。術士の称なり」とあり、柔和なことがその意味であるといいます。「武」に対する「文」のようなものでしょう。

 また、アメカンムリが入っており、雨に濡れるの「濡」という字に似ています。清の文字学者・段玉裁は、アメカンムリの下の「而」は下に垂れたヒゲであるとしました。乾いたヒゲはごわごわして、あちこちにぶつかります。一方、雨に濡れたヒゲは柔らかくスムーズであり、よって「儒」とは人間が社会でスムーズに生活する教えということになるのです。

 儒教が宗教であることの理由はまだあります。中国哲学者で、儒教研究の第一人者として知られる加地信行氏によれば、宗教とは「死ならびに死後の説明者」であるといいます。人間にとって究極の謎である死後の説明ができるものは宗教だけです。そして、個人のみならずその民族の考え方や特性に最もマッチした説明ができたとき、その民族において心から支持され、その民族の宗教になるのです。

 中国の場合、漢民族に最もしっくりくる「死ならびに死後の説明」に成功したのが儒教であり、儒教のあとに登場する道教でした。そのため、儒教や道教は漢民族に支持され、国民宗教としての地位を得たのです。仏教は漢民族の支持を得られなかったため、中国では確たる地位を得ることができず、ついには国民宗教となることができなかったのです。

 この三つの宗教の死生観を見てみると、仏教には「輪廻転生」、道教には「不老長生」、儒教には「招魂再生」というコンセプトがあります。仏教は生死を超えて「仏」になろうとします。道教は生死を一体化して「仙人」になろうとします。そして、儒教は生きているときには、「聖人」になろうとし、死後は祖先祭祀によって生の世界に回帰するわけです。

 ということで、儒教に対する著者の見方には大いに異論がありましたが、日本人の死生観については傾聴すべき部分がありました。著者は日本の死生観における最大の特徴として、死後の世界を不浄のものと考えることを挙げています。

 また、日本独特のものとして「うつる」という考え方があると指摘しています。不浄なものが「うつる」という発想ですが、これは道教や儒教にはないというのです。というか、この考え方は神道に由来するものであることは自明だと思うのですが。

 著者は、死を忌み嫌うことと、その忌み嫌うものが近くにいると「うつる」という発想は、部落差別の問題にも直結すると指摘した後、次のように述べます。

 「まず。死体を忌み嫌うという考え方があり、それが死体を扱う職業の人を忌み嫌うことにつながり、さらにはその人からけがれが『うつる』として交流を絶ち、一ヵ所に集めて住まわせて、『部落』と称して隔離してしまったのです。死や死体を忌み嫌うというところまでは理解できることですが、死体を扱う職業の人を『うつる』として差別するというのは、まったく理解を超えています」

 わたしは、日本人が異常なほどまでに死を忌み嫌うことを憂えている者ですが、この著者の見方には大いに賛同できます。また、著者は「もしかすると、何度も伝染病が蔓延して、『うつる』とたいへんなことになるという発想が、日本人の中に強く刷り込まれてしまったのかもしれません」という著者の推測もおそらく正しいと思います。著者は、次のように述べています。

 「この日本人の『死』や『死体』に対する異常なまでの忌み嫌い方は、死への恐怖の裏返しと私は見ています」

 そうなのです!「死」を「不幸」と言い換える日本人は、じつは世界で最も「死」を恐れている民族に他なりません。先日の「フューネラルビジネス・シンポジウム2010」における講演でも、「日本人は、死ぬことを世界一ビビってる民族です!」と発言したところ、多くの方々から賛同を得ました。

 さて、世界一「死」を恐がる民族の「死」のセレモニーについてはどうか。天台宗ハワイ別院国際部長でもあるという著者は、本書の「葬式とは何か」という章で次のように述べます。

 「日本の大乗仏教は浄土教の思想が強く反映されていますから、仏弟子しかあの世(浄土)へ行けないことになっています。(当然、死後の世界の存在を認めることになります)。そのため、死後、あわてて無理やりにでも仏弟子にして、浄土へ行ってもらおうというのが、現代の日本仏教の葬式なのです。生前、仏縁がなかったかわいそうなお父さんのために、遺族が仏弟子にしてあげる。その仏弟子になったお祝いが葬式というわけです」

 この「葬式=お祝い」という考え方には、大いに共感が持てました。もともと、「葬」という字も「祝」という字も、古代日本ではともに「はぶり」と読みました。つまり、「葬」も「祝」も同じ意味だったわけです。

 それにしても、「死」について考えることは、ものすごく抽象的な思考行為といえます。かのプラトンは、「哲学とは死の予行演習である」という言葉を残しているぐらいです。著者によれば、「死」について悩んだり迷ったりするのは、脳が進化した証拠だそうです。つまり、脳が進化して抽象化能力が優れている証拠だというのです。

 最後に、著者は「人生の目的」について問い、釈迦のエピソードを紹介しています。

 あるとき、弟子が釈迦に「いったい、私たちは何のために、どこを目指して歩いているのでしょうか」と尋ねたそうです。すると、釈迦は「歩くために歩いている」と言ったそうです。なんだか、後に仏教の一派として生まれる禅宗の禅問答みたいですが、要するに、歩くことそのものが目的であるというわけですね。そのエピソードを紹介した後、著者は次のように述べます。

 「人生の最終目的地は明らかに『死』です。『天国』という人がいるかもしれませんが、死ななければ行けないのですから、同じことです。
 『天国に行きたいのなら、今すぐに天国に送ってやるよ』と言っても、相手には喜ばれません。それは人生の目的が、最終地点にたどり着くことではないからです。ドライブをする目的がドライブそのものなのと同様に、人生の目的とは『人生を生きること』なのです。せっかくドライブするなら、その時間を目一杯楽しんだほうがいいのと同じで、せっかく生まれてきたのなら、生きているその時間を目一杯楽しんだほうがいいということになります」

 つまり、「歩くために歩く」という釈迦の言葉の意味は、「生きるために生きよ」というメッセージだというわけです。わたしたちは、「死」を未来として生きている存在です。どんなに忌み嫌おうが、どんなに恐れようが、「死」から逃れることはできません。ならば、「死ぬために生きている」ことを自覚して、著者が言うように「生きているその時間を目一杯楽しんだほうがいい」のです。

 当たり前といえば、あまりにも当たり前な結論ですが、稀代の天才脳機能学者の発言となると、異様な説得力を帯びてくるから不思議ですねぇ。

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