No.0116 人生・仕事 『編集者の仕事』 柴田光滋著(新潮新書)

2010.07.17

 編集者の仕事』柴田光滋著(新潮新書)を読みました。「本の魂は細部に宿る」というサブタイトルがついています。

 著者は、新潮社において40年以上にわたって数々の名著を手がけたベテラン編集者です。「電子書籍元年」と言われる今、昔ながらの「紙の本」の魅力を大いに語ります。サブタイトルに「本の魂は細部に宿る」とあるように、「いい本」にはオビから奥付まで随所に工夫が凝らされています。著者は、次のように述べます。

 「編集の現場では、しばしば『本はモノだからね』などと言う。この場合、定価を抑えた本であれ、豪華な仕立ての本であれ、本である以上は細部の細部に至るまでちゃんと仕立てなければいけないという意味なのです」

 本書には、「1頁が存在しないのはなぜか」「目次と索引こそ技量が問われる」「余白の意味」「明朝体の美しさ」「本文紙は白ではない」など、本好きにとって興味が尽きないテーマがたくさん語られます。

 では、書籍編集者の仕事とは何か。
 まず企画を練り、しかるべき執筆者を探し、原稿を入手する。これが基本であり、大前提です。でも、原稿を獲得したというのは、料理ならやっと食材が揃った段階にすぎません。

 「内容がよければそれで良し」と言う人が、編集者にも読者にもいます。本文に表紙とジャケットが付いていればOK。本は内容第一であって、装丁などに凝る必要はないというのです。

 最近では、本は新書のみを読むべきであってハードカバーなど廃止すべしという人もいます。これらの人々のことを「内容至上主義者」あるいは「テキスト至上主義者」とでも呼ぶべきでしょうか。著者は次のように述べます。

 「たしかに内容は第一です。しかし、だからと言って形はただあればいいというものではないでしょう。読者はともかく、もし書籍の編集者が形を軽視するとすれば、それは仕事を半ば放棄しているに等しい。書籍の編集とは、言わば一次元である原稿を獲得し、その内容にふさわしい本という三次元のモノに仕上げて読者に届ける作業だからです」

 「一次元の原稿」を「三次元の本」にするというのは名言ですね。

 紙の本の魅力について、著者は評論家の坪内祐三氏の『古くさいぞ私は』の文章を紹介します。この本の中で、本とコンピュータの最大の違いを「積ん読できるかいなかにある」とした上で、次のように書いています。

 「実際に目を通していなくても、その本を持っているという事実だけで豊かな気持ちにさせてくれる。そういうモノとしての近代的書物を誕生させてくれたことだけで、私は、グーテンベルクに感謝している」

 これまた、本好きの心に響く名言ですね。いま、メディア革命を評して「グーテンベルクからグーグルへ」などと呼ばれます。わたしもグーグルには感謝しませんが、グーテンベルクには感謝したいと思います。

 「電子書籍元年」などと呼ばれますが、わたしは紙の本は最終的に生き残ると思っています。新聞やテレビがどうなるかはわかりません。でも、書籍というメディアは生き残ると思っています。
 書籍の歴史はじつに3000年です。他のメディアにはない底力を本は持っています。
 たとえば、わたしは本も書くし、ブログも書きます。
 ブログの長所は何と言っても、その簡便性にあります。それに比べて、本を書くのは面倒な作業の連続です。
 でも、世に流通する膨大なブログが誤字の宝庫である現状を見るにつれ、編集者によって編集作業が行われ、何度も校正を行うという、この上なく面倒くさい本というメディアの素晴らしさが見直されます。著者は、次のように述べます。
 「当節はブログ全盛、インターネットを通して個人的な発信をしている人が少なくありません。また、同じくインターネット上にはさまざまな書き込みがあふれています。それ自体をとやかく言うつもりはありませんが、校正者という第三者に目を通してもらっているケースは稀でしょう。いかに慎重に書いたところで誤りは伴う。意図せずに他人を傷つけていることも考えられます。誤字や誤記、不正確な表現、客観的な裏づけに欠けた感想を見るたびに、改めて校正という作業の大切さを思わずにはいられません」

 そのままでは煮ても焼いても食えないわたしの原稿を、美味かどうかは知りませんが、少なくとも食べれる料理には仕上げてくれる編集者の方々の顔を思い浮かべていました。

 本書は、編集者という仕事がいかに知的であり、いかに社会にとって必要な存在であるかを教えてくれる本でした。

Archives