No.0121 国家・政治 『現代人の祈り』 釈徹宗・内田樹・名越康文著(サンガ)

2010.07.26

 現代人の祈り』釈徹宗・内田樹・名越康文著(サンガ)を読みました。
 サブタイトルに「呪いと祝い」と付けられています。じつは、「呪いと祝い」は、わたしが書きたかった本のタイトル案でした。そんなこともあり、多大な興味を持って一気に読了しました。

 まず、帯に武田鉄矢氏が写真付きで推薦者として登場しています。正直、これには違和感を感じました。その推薦の言葉も、「辺境の国・日本の『知』ここにあり。『知』こそ人の宝なれば、宝のありかはこの1冊にあり。」というものです。

 この文章を格調高いと思う人もいるのかもしれませんが、わたしには大仰に感じられました。わたしは別に武田氏を嫌いというわけではありませんが、この本の推薦者としてはミスマッチではないかと思ったのです。帯には、新聞の書籍広告に出ていた内田氏の口上を載せたほうが良かったのでは?

 本題に入りましょう。内容は非常に興味深く、知的好奇心を刺激する問題提起の宝庫でした。まず、内田樹氏は現代という「呪いの時代」について、次のように語ります。

 「ネット上に氾濫している攻撃的な言説のほとんどは僕の目には『呪い』に見えます。言葉によって、その言葉を向けられた人々の自由を奪い、活力を損ない、生命力を減殺することを目的としているのであれば、その言葉はどれほど現代的な意匠をまとっていても、古代的な『呪詛』と機能は少しも変わらない。われわれは今深々の『呪いの時代』に踏み込んでいる。このことの恐ろしさにほとんどの人々はまだ気づいていない」

 現代のIT社会は、陰陽師が活躍した平安時代など比較にならないほどの「呪いの時代」であるというのです。

 これに対して、浄土真宗本願寺派の住職でもある釈徹宗氏は次のように語ります。

 「『呪い』というのは、もともと言葉が『告(の)る』、つまり『言葉を使う』ということです。そして、『祈り』も同じ語源です。ということは、『呪い』も『祝い』も裏腹で、かたや負の祈り、かたや正の祈り、そんな感じですね」

 「呪い」は「匿名性」、あるいは「別人格性」という要素が大きなポイントになります。呪術の場合だと「仮面を着ける」ことによって個人のタガをはずしますが、ネット内で匿名で発言することは仮面を着けて別人格を演じることと同じ機能を持ちます。仮面や匿名は、一人ひとりの人間の「かけがえなさ」を捨て去ってしまいます。

 内田氏はもう何年も「2ちゃんねる」を見ていないそうですが、それを見たときに非常に驚いたそうです。内田氏は、その理由を次のように述べています。

 「もともとの動機としては、自分自身の個人的な羨望とか嫉妬とか、本当に私的な、内発的な感情から発した言語が、ネットに乗ると、ある種の公共性を獲得してしまうこと。発言しているのは個人なんだけれど、その個人が固有名を引き受けず、匿名で発信した瞬間に、そこにあたかも一つの巨大な集団があるかのように仮象してくる。何百人、何千人、何万人というような、その人と同じような意見を持つ匿名者たちの巨大集団が本当に存在して、たまたまその一人がその集団の総意を代表して発言しているかのように見えてくるんです」

 なぜ、ネット上の言論には「人を説得する」というモメントがないのか。内田氏によれば、それは説得する必要がないからだそうです。匿名者は「私は正しい。なぜならば私は正しいからだ」という同語反復のようなことしか書きません。それは、別に気が狂っているわけではありません。それは、匿名で、仮面をかぶって発信した瞬間に、ある種の集団的意志を代表しているという「錯覚」を抱いてしまうのです。

 そして、それは書いている本人のみならず、読んでいる人間もその「錯覚」を共有してしまうのです。内田氏は、「仮面の怖さというのは、人物が特定されないから無責任に攻撃的になれるということではなくて、仮面をかぶった人間は過剰な『自信』を持ってしまうということなんです」

 匿名で書かれた「錯覚」にもとづく発言は、もはや「個人によって引き受けられない言葉」です。しかし内田氏は、「個人によって引き受けられない言葉」には固有のパワーがあるとして、次のように述べます。

 「個人としては弱い人たち、権力も、財貨も、威信も、文化資本も、自分には不足していると思っている人たち、自分はもっと尊敬され、潤沢な資産に恵まれ、社会的威信を享受していてよいはずなのに、そうなっていないという不充足感に苦しんでいる人たちは、この『匿名で発言することによって受け取れるパワー』に魅せられてしまう。それは磁石に鉄粉が引き寄せられるように、抵抗しようがないんです」

 さすがは、内田樹! 見事に匿名ブロガーや2ちゃんねらーの本質を突いています。この世で匿名ブロガーほど寂しく、悲しく、かつ卑怯な存在はないでしょう。それは自身の欲望を満たすことができないために、他人への嫉妬にもがき苦しむ存在に他なりません。内田氏は、続いて次のように述べています。

 「この過剰な自尊感情とぱっとしない現実の乖離に苦しんでいる人たちを、僕たちの社会は構造的に大量に生み出している。その一方で、匿名で世界に向けて発信できる安価で便利なテクノロジーは圧倒的に普及している。この二つの要素が組み合わさったことによって『呪い』の言説の培養地が出来上がっている。ある意味で、これほど『呪い』にとって有利な情報環境というには、歴史上存在しなかったのではないかと思えるくらいに」

 釈氏は、この内田氏の発言を受けて、「呪い」は同じコミュニティーの内にしか機能しないという特性を持っていることを指摘します。コミュニティー以外の人には「呪い」は効かないわけです。天中殺とか大殺界といっても、それを信じない人には関係ないわけです。釈氏は次のように述べます。

 「私や内田先生のように、ネットの書き込みに興味がない人間には、ネットの『呪い』は効かないと思われます。もちろん見なければ効かないのは当たり前なのですが、たとえ自分の悪口が書き込まれているのを目にすることがあっても、それほどのダメージは受けないのではないでしょうか。ネット内の住人だからこそ、ネット内の『呪術』にかかるのです。さらに、今、内田先生が指摘されたように、匿名性によってある大きな領域を代表しているかのような構造、一つの社会に攻撃されるがごとき状況になってしまうのでしょう」

 現在の日本では年間3万人以上の自殺者がいますが、その中にはネット上での攻撃を苦にして死んだ人も少なくないとされています。お隣の韓国にいたっては、有名芸能人をはじめ、ネットが原因で自殺する人が後を絶ちません。そんな時代だからこそ、この「ネットの住人をやめる」という釈氏の方法は非常に重要な視点でしょう。

 内田氏と釈氏の対談のタイトルは「呪いと祝い」ですが、もともと内田氏は「呪詛と予祝」というタイトルを希望していたそうです。でも、それだとあまりにもマニアックな印象になってしまうので、釈氏が「呪いと祝い」に変更したのだとか。「呪詛」は「呪い」のことだとわかるとしても。「予祝」というのは聞き慣れない言葉です。これは、文字通り、予め祝うことです。

 故・白川静氏と梅原猛氏の『呪の思想』(平凡社)という対談集があります。この本で白川氏は中国の古代歌謡について触れていますが、「賦」という古代歌謡の形式の話をしています。この「賦」は叙景の詩です。山が高い、森が深い、花が咲いている、水が流れている、鳥がさえずっている、・・・そのように、景色を細かく記述するのです。白川氏によれば、この叙景という言葉の使い方が祝福のもっとも太古的な形態だそうです。この白川説から内田氏は、古代日本の「国誉め」という儀式を連想します。

 この「国誉め」も、高い山がある、その横に河がある、そのかたわらに大きな森がある・・・といったふうにそこにあるものをただ列挙するだけで、別に美辞麗句を並べ立てるわけではありません。祝福するとは、本来そういうことだというのです。そして、ことごとしい形容詞を並べ立てたりせずに、目に見える一つひとつのものを「その名で呼ぶ」ということこそが祝福だと考える内田氏は、次のように述べます。

 「ユーミンや桑田佳祐の歌が国民歌謡として歌い継がれているのは、それが『国誉め』になっているからじゃないかと僕は思ってるんですよ」

 なるほど!たとえば、ユーミンの「中央フリーウエイ」の歌詞は「調布基地を追い越し」とか「右に見える競馬場、左はビール工場」といった具合です。サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」なども、「江ノ島が見えてきた、俺の家も近い」という歌詞で、きわめて価値中立的なフレーズになっています。まさに、ユーミンや桑田は「国誉め」をしているというのです!内田氏は述べます。

 「そこにそういうものがある、と。ただ、そう言うだけで祝福になる。だから、それと同じ理屈で、ここにこういうものがいるということを名指すことは呪いとしても機能する。呪いとものの名前の間には深いかかわりがある」

 内田氏によれば、「国誉めによる祝福」と「名前を言うことによって相手を縛る呪」は「名付けること」の霊的な効果の裏表であるそうです。「呪」と「祝」は語源的にも同じ意味ですから、これはよく理解できますね。さらに内田氏は述べます。

 「祝福という行為は突き詰めると『名付ける』という行為に集約できるんじゃないかと思うんです。名前をつける。猫に名前をつけるように、名前のないものに名前をつける。叙景もそれに含めていいと思う。とにかく記述する、写生する」

 「長崎は今日も雨だった」「新潟ブルース」「よこはま たそがれ」など、当地ソングはその土地を祝福していることになるわけです。実際、ご当地ソングを持っている地方の人々は地元への愛着が強いのではないでしょうか。さらに、「中の島ブルース」「港町ブルース」「ふりむかないで」など、全国の地名がふんだんに登場するような歌というのはまさに日本国を「国誉め」しているのですね。

 わたしは、本書から非常に大きな示唆を得ました。最後に3人の著者のうち、名越康文氏の発言もご紹介しましょう。有名な精神科医でありカウンセラーでもある名越氏は、現在の医療における延命至上主義について疑問を抱いており、次のように語ります。

 「『生きるということは素晴らしいことだ』ということを、もっとしっかりと見つめて掘っていったら、それも一つの思想になると思うのですが、結局今までの医療はとりあえず『死ぬのがこわい!嫌すぎる!』という死に対する衝動的恐怖というところで、すごく頑張ってきた。あらゆるすごい文明的発見・開発を続けてきた、という感じがします。でもそれは同時に、そのさらに根本のところは何一つ手を付けずにやってきた、ということなんです」

 そして、名越氏は続けて次のように言います。

 「だから、僕たちは、どこかで『おめおめ生きている者同士やなあ』といういたわり合いを持つのが、本当はいいのではないかと思います」

 「おめおめ生きている者同士」というのは、すごくいい言葉ですね。この名越氏の提言は、とても大切なことではないでしょうか。
ということで、帯の違和感だけを除けば(笑)、本書は大変な名著でした。

 「呪い」と「祝い」の問題は、わたしが拙著『法則の法則』(三五館)で展開した「黒魔術」と「白魔術」の問題にも通じます。

 今後も、わたしなりに「呪い」と「祝い」について考え続けたいと思います。

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