No.0086 心霊・スピリチュアル 『心霊写真』 ジョン・ハーヴェィ著、松田和也訳(青土社)

2010.06.02

 『心霊写真』ジョン・ハーヴェィ著、松田和也訳(青土社)を読みました。「メディアとスピリチュアル」というサブタイトルがついています。

 著者は、イギリスの美術史家・芸術理論家であり、専門は宗教における視覚文化です。心霊写真という現象を、宗教、科学、芸術という三つの視点から読み解いてゆくという、きわめて刺激的な論考でした。心霊写真の図版も多いです。

 およそ、この世で心写真ほど興味深いものはありません。コンビニの棚にも、心霊写真の本やDVD付きムックなどが並んでいます。それだけ関心を持つ人が多いのでしょう。

 わたしも、小学生の頃より大いに興味を引かれました。たしか、つのだじろうの『うしろの百太郎』の連載第1回目に心霊写真なるものが紹介され、わたしは初めてその存在を知りました。たしか、歯医者さんの待合室で掲載誌である『少年マガジン』を読んだのです。

 霊がカメラに写るということに大変なショックを受けたことを記憶しています。その後、二見書房のサラブレッドブックスから出ていた中岡俊哉の『恐怖の心霊写真集』シリーズをすべて買い求め、こっそりと一人で本を開いては震えあがっていました。

 本書にも書かれていますが、カメラという機械は「片足を科学の陣営に置きながら、もう一方の足は依然として宗教とオカルトの領域に置いて」います。翻訳者も、「それは常に時代の最先端の科学機械でありながら、一方では目に見えぬその暗箱の中で妖しげな練成作業を演ずる、錬金術師の窯の末裔のような不気味さを秘めている」と書いています。

 もともと写真は、錬金術における科学と超自然の結合から生じました。15世紀の錬金術師は、銀と海塩を混ぜ合わせて露光させると、その白っぽい色が黒く変化することを発見しました。それから3世紀後、現在の写真の原型が誕生したのです。それから間もなくして、心霊写真が生まれました。その背景には、スピリチュアリズム、すなわち心霊主義の存在がありました。

 18世紀の啓蒙思想以来、合理主義科学は伝統的なキリスト教会の根本教義のいくつかに異を唱えてきました。新しい地質学やダーウィンの進化論は『旧約聖書』の「創世記」に描かれている歴史、地球の年齢、あるいは人類の起源に疑問を投げかけました。そして、神や魂や死後の生といったものを暗に否定したのです。

 心霊主義とは、キリスト教の伝統教義を守るのみならず、科学による修正や還元主義に対抗しようとしました。また、心霊主義の時代の幕開けを告げる「ハイズビル事件」が1848年に起きました。アメリカのニューヨーク郊外ハイズビルに住む二人の姉妹が、死者の霊と交信したとされる事件です。この事件をきっかけに、アメリカからヨーロッパ各地へとまたたく間に心霊主義のブームが広がり、大流行となりました。

 多くの霊媒が次々に輩出し、交霊会が各地で盛んに行われました。コナン・ドイルやアルフレッド・ウォーレス、ウィリアム・クルックスなど、著名な知識人や科学者たちが参加しました。ハイズビル事件が起きた1848年は革命の年でもありました。

 フランスの2月革命、ドイツ、ハンガリーの3月革命、ポーランド、ハンガリー、アイルランドの独立運動、イタリアの統一運動などが起こりました。労働運動が盛んになり、ついにはマルクスの『共産党宣言』が出されました。その冒頭には「ヨーロッパ大陸を幽霊が徘徊している」と書かれていますが、この年、たしかに幽霊が徘徊しました。ただし、唯物論と心霊主義という二体の幽霊が。

 唯物論に対抗すべく、心霊主義者は心霊写真を発明しました。著者のハーヴェィは、次のように述べています。

 「心霊主義は、万人の目に明らかな霊の存在証拠を求めた。それまで、霊との交信を示す主要な証拠はラップ音や実体無き声、ポルターガイスト現象などであったが、これらは一時的な現象であり、確かな証人の存在を必要とする。これに対して心霊写真は永続的であり、肉体を持たぬ意識的存在を検証可能な形に再現する」

 アメリカのユニテリアンの唱道者セオドア・パーカーは、「心霊主義は、歴史上の如何なる宗教にもまして、奇蹟を証明する証拠に富む」と語りました。

 奇蹟を証明する写真の中で、最も有名なものは、「コティングレイの妖精写真」です。1917年から1920年までの時期に、イギリスのコティングレイにおいて、二人の女学生によって撮影されたものです。実際は雑誌から妖精の絵を切り取ったトリック写真でしたが、コナン・ドイルなどは完全に信じ込んでしまいました。

 この妖精写真からもわかるように、心霊写真というものは基本的に捏造です。というよりも心霊写真が誕生した当初、多くのプロの心霊写真師たちが生まれましたが、彼らは職業的に死者の姿を生者と並べて写真に浮かびあがらせ、多くの「愛する人を亡くした人」たちを慰めてきたのです。心霊写真専門の写真館まで存在したといいます。高い技術を持つ心霊写真師たちは、いくらでも有名人を含めた死者を甦らせることができました。

 初期の写真であるダゲレオタイプは、著名な人物の写った手札型写真として普及しましたが、それは絵画や版画から複製した肖像を、他の歴史上の人物と並べて座らせたものでした。それを本物のように見せるために、「二重プリント」「陰画合成」「肖像合成」などの方法が用いられたのです。

 各地の観光地では土産物の幽霊写真が売られましたが、それらは多重露光と陰画の重ね焼きによって作られたものでした。万華鏡やレンティキュラ・ステレオスコープの発明者として知られるディヴィッド・ブルースターは、「この悪趣味な土産物が・・・・・いわゆる『心霊写真』へと発展した」と語っています。

 心霊写真には、もうひとつルーツがありました。「臨終の絵」というジャンルを受け継いだ「臨終写真」です。まだ生きているかのような姿勢を遺体に取らせて、それを撮影した写真です。著者は、「臨終写真」について次のように説明しています。

 「安らかな永眠を思わせ、遺族への慰めとするためにベッドに寝かせたり―あるいは(一時的に)祈ったり、寛いで休憩や仮眠をしているかのような姿勢で腰掛けさせる―敢えて、今はなき魂がまだそこにあるかのように。写真の黎明期においては、これらが故人の最初にして最後の写真となったであろう。殊に、幼児や乳児の場合は。家族に囲まれて、揺籃を思わせる柩の中で、乳児が両親や兄弟たちとポーズを取る。生者と死者が共に、乳剤の中に永遠化される―露光の瞬間、共に永遠の静物となる」

 このような「臨終写真」は、スペイン映画界の鬼才アレナンドロ・アメハーバルが監督し、二コール・キッドマンが主演した映画「アザーズ」に登場しました。

 この「アザーズ」という作品は、ヴィクトル・ユーゴーが交霊術にのめり込んだ場所である英国ジャージー島が舞台となっていますが、心霊主義の持つ魅力、神秘性、そして妖しさを見事に描いた名作です。

 そして、臨終写真から心霊写真へ。臨終写真も心霊写真も、死者の姿を写していることでは共通しています。ただし、一方は埋葬までの一時的な姿であり、もう一方は死後の魂の姿ですが。いずれにしても故人の死後の肖像であることには変わりはありません。それらの写真は、死者が見かけにおいて生者と変わらぬ存在であることを示すのです。

 さて、写真の中の霊の姿には、写真誕生以前の絵画や版画など多くの視覚的資料だけでなく、文学上の亡霊描写も大きな影響を与えました。著者は、その好例として、チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』に描かれた亡霊たちをあげます。

 『クリスマス・キャロル』の初版は、1843年に世に出ました。その翌年、ハイズビル事件が起きました。5年後、心霊主義が誕生しました。8年後、世界初の心霊写真が撮影されました。その後、霊が写真に写るという物語が広く普及し、絶大な人気を誇った背景には、ディケンズの亡霊描写および、その挿絵の亡霊の容姿の多大な影響があったことを著者は指摘するのです。

 また、現代的においては、ディヴィッド・リンチの映画において描かれている世界が心霊写真につながっていると、著者は述べます。著者いわく「不具で畸形でグロテスクな異形の生命に魅せられた映画監督」リンチ。

 映画的に言えば、リンチ自身の超自然主義を示すタイプ、シンボル、あるいはメタファーの図像学は、さまざまな形で心霊写真の影響を受けているというのです。「イレイザーヘッド」も「エレファントマン」も「ロスト・ハイウエイ」も「マルホランド・ドライヴ」も、たしかに心霊写真そのもののような映像です。その集大成が、かの伝説的なTVシリーズ「ツインピークス」かもしれません。放映当時からユングの影響も指摘されていましたが、まるで悪夢のような作品でした。

 著者は、「リンチ作品の登場人物は、暗い廊下や小径から、無音で、緩慢に、不気味に出現する。ネガに現れるイメージのように、暗闇に物質化する霊のように」と述べます。

 本書は、トリノの聖骸布やルルドの奇蹟画などの心霊写真前史から丁寧に掘り起こし、すぐれた人類の精神史となっています。それにしても、わたしは、死者が写るという心霊写真を生み出した人間の「こころ」の不思議さを思わずにはいられません。

 心霊写真とは、著者がいうように「そこに写し出された生者と死者の悲嘆と哀惜、諦念と期待、憧憬と情愛の『物質化』に他ならない」のでしょう。心霊主義と心霊写真は、厳密な論証と詐術の暴露によって一度は消え去る運命にありました。しかし、20世紀における2度の世界大戦で息を吹き返したのです。

 この悲しい事実は、多くの遺体もない状態で愛する家族の葬儀をあげなければならなかった遺族の心情がそれらを強く求めたことを示しています。当時の大衆にとって、心霊写真とは、グリーフケアのためのイコンだったのです。そこに、亡き愛する人との再会への祈りを込めていたのです。

 人間にとって葬儀が必要であるように、彼らにとっては心霊写真が必要だったのです。

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