No.0089 人生・仕事 『生きる意味』 上田紀行著(岩波新書)

2010.06.09

 生きる意味』上田紀行著(岩波新書)を読みました。

 上田さんは気鋭の文化人類学者で、鎌田東二さんと親しい関係です。わたしも、何度もお会いしたことがあります。

 本書は、ある予備校の調査によると、2006年の全国の大学入試で出題数が第1位の本だったそうです。40以上の大学が本書から出題したというから、すごいですね。それほど、本書の内容が現代社会の抱える問題を浮き彫りにしたということでしょう。

 著者によれば、わたしたちがいま直面しているのは経済的不況よりもはるかに深刻な「生きる意味の不況」です。1部屋に1台テレビがあり、1家に1台も2台も車があるような暮らしは、この地球上で一握りの人たちのみに許された豊かさです。でも、そんな物質的豊かさの中で、多くの日本人は「本当に欲しいもの」がわからない「空しさ」に苦しんでいます。著者は、「はじめに」で次のように述べています。

 「そんな社会は決定的におかしいと私は思う。紙も鉛筆もコンピュータもある。しかし道具はふんだんにあっても、それを使って夢を描くことができない社会。一生懸命働き、社会に貢献してきた人たちが、自分たちにはもはや価値はないと思わされ、老後の不安に駆られるような社会。どう考えてもおかしくはないか。」

 わたしたちの社会を襲っている問題の本質とは「生きる意味」が見えないことだと、著者は言います。さらには、日本社会のいたるところで「生きる意味」の雪崩のような崩壊が起こっているとも。

 まず、その崩壊が目に見える形で現れているのが若者の危機です。そして、何よりも社会を震撼させるのは、暴力の噴出です。その異変の第一は、それが突然起こること。第二は、そうした暴力が普段は優等生の「いい子」に起こること。

 「生きる意味」が見えないのは若者だけではありません。1998年からずっと自殺者の数が年間3万人を越えています。自殺を試みたけれども未遂に終わった人は、その2倍の数だと考えられています。単純に計算しても、1年間に自殺を試みた人はおよそ10万人ということになります。その内訳としては中高年者の「生活苦」が3分の1程度です。そして、その割合は年々増加しているというのです。菅新首相も、就任記者会見で、日本における自殺者の多さについて触れていました。

 高度成長期からバブルへ向かう右肩上がりの時代においては、個人の「生きる意味」を深く追い求めなくても、ひとまずは幸せにやっていける時代でした。大学も会社も、他の人々がうらやむ所が良い大学であり、良い会社でした。

 会社員ならば、自分の飲んでいるウイスキーで人生における現在地が分かりました。サントリーの商品でいえば、トリスからホワイト、角瓶、オールド、リザーブ、ロイヤルにグレードアップしてゆくといった具合です。

 これまでの時代は、「生きる意味」も既製服のように、決まったものが与えられた時代だったのです。しかし、いまや一人ひとりが「生きる意味」を構築していかなければならない時代が到来しました。著者の言葉を借りれば、「生きる意味」のオーダーメイドの時代なのです。

 「生きる意味」を持たない現代日本人を象徴する言葉が「透明な存在」です。そう、あの酒鬼薔薇聖斗少年が提示した言葉ですね。「透明な存在」とは、色も匂いも癖もない存在です。

 でも、若者たちはそうした色や匂いを出せば必ず嫌がります。いじめられるというのです。友達に本音を言うと「くさいよ、そんなの」と言われてしまう。そうして、多くの日本人が他者から受け入れられるために「自己透明化」していきました。しかし、「透明な存在」は、生きていく上で大きな問題を抱えています。それは自分の存在感を感じることができないということです。さらに、この「透明な存在」は、なぜ自分が自分でなければならないのかが分かりません。

 なぜ自分が他の人間ではなくて、この自分でなければならないのか。他の人間と入れ替わっても別にかまわないのではないか。

 自分の色や匂いを消した透明人間たちは、互いに交換可能な存在となるのです。交換可能の反対とは何か。それは「かけがえのない」ということです。

 「透明な存在」は、自分自身をかけがえのない存在であると感じることができません。常に自分は他人と交換可能であるという感覚がつきまといます。それは、まさに人間の尊厳を最大限に傷つけられた状態なのです。

 著者は、「生きる意味」を喪失した日本社会における自己信頼の回復は、次の2つの方法で可能になると説きます。

 第1に、わたしたち一人ひとりを固有の「生きる意味」を持った存在でざるととらえ、一人ひとりの中の「内的成長」を見ること。

 第2に、わたしたちが自分自身を「内的成長」する存在だと感じ、「生きる意味」を探求すること。

 「自分の幸せのみを喜ぶ者の幸せは有限である。しかし他人の幸せを我がことのように喜べる者の幸せは無限である」という多くの文化に伝えられている教えは、どんな社会が人間に最大の幸せをもたらしてくれるかを教えてくれます。それは言うまでもなく、「思いやり」社会であり、「助け合い」社会であり、つまるところ、わたしのいう「ハートフル・ソサエティ」に他なりません。著者の次の言葉は、まったくわたしの思いと同じです。

 「誰もが自分の『生きる意味』を生きたいと思っている。自分も尊重され、あなたも尊重される社会になればと念願している。冷酷な社会ではなく、あったかい社会を築きたいと思っている。その思いに形を与え、身近なところから一歩を踏みだせば、私たちは自分自身の生き方とこの社会のあり方を変えていくことができる。」

 「弱いものいじめ」をする社会が大嫌いという著者は、文化人類学者として深いいきどおりを感じ、「あとがき」で次のように述べます。

 「長い歴史の歩みの中で、個性に満ち、豊かな文化を育んできた人類社会は、どうしてここに来て『弱肉強食』という薄っぺらな哲学になびこうとしているのだろうか。どうして我が日本は、その浅薄なイデオロギーを『グローバル・スタンダード』などと言って持ち上げようとしているのだろうか。私は心の底からそのことを『恥ずかしい』と感じ、打ち震えている。」

 最後に、わたしは現代日本人が「生きる意味」を持つためには同時に「死ぬ意味」を持たなければならないと考えます。

 「死」は、わたしたちの未来です。そして、葬儀は人生の卒業式です。卒業式としての最期のセレモニーで、多くの人々が集まり、「かけがえのない人だった」と言われるような人生。そんな人生を歩むことをイメージすれば、自ずから「生きる意味」も生まれてきます。

 自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。そんな理想の葬儀を実現するためには、残りの人生において、あなたはそのように生きざるをえなくなるのです。その人生が、他人の人生と交換可能であるはずがありません。

 それは、かけがえのない、自分だけの「生きる意味」を探求した軌跡なのです。ということで、本書を読んだわたしは、またしても「葬式は必要!」と思った次第です。

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