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モノ学・感覚価値研究
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モノ学・感覚価値研究』

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No.0065

 

 鎌田東二さんから、『モノ学・感覚価値研究[第4号]』をお送りいただきました。表紙の絵が素晴らしいです! 京都造形芸術大学教授で日本画家の松生歩さんの作品です。


 「モノ学・感覚価値研究会」というのは、2006年に設立されたユニークな研究会で、鎌田さんが代表を務めています。モノ学の構築を目指し、「もののあはれ」および「もののけ」から「ものづくり」までを貫流する日本文明のモノ的創造力と感覚価値を検証するそうです。

 

 この「モノ学・感覚価値研究会」とはどんな研究を行うかというと、代表者の鎌田さんが次のように5つの方向性を打ち出しています。

 

 ① 日本人が「モノ」をどのように捉え、「モノ」と心と体といのちおよび自然との関係をどう見てきたかを検証すると同時に、「カワイイ・カッコイイ・ワクワク・ドキドキ・こわい・すてき・おもしろい・たのしい」などの快美を表わす感覚価値形成のメカニズムを分析する。

 

 ② 「モノ」が単なる「物」ではなく、ある霊性を帯びた「いのち」を持った存在であるという「モノ」の見方の中に、「モノ」と人間、自然と人間、道具や文明と人間との新しい関係の構築可能性があると考える。

 

 ③ 21世紀文明の創造には新しい人間認識と身体論と感覚論が必要であり、感覚基盤の深化と再編集なしに創造力の賦活と拡充はないでしょう。それゆえ、「モノ」の再布置化と人間の感覚能力の可能性と再編成を探ることは極めて重要な21世紀的課題となるだろう。

 

 ④ 人間の幸福と平和と結びつく「モノ」認識と「感覚価値」のありようを探りながら、認識における「世直し」と「心直し」をしていくのが本研究の大きな目的である。

 

 ⑤ 「モノ」と「感覚価値」を新しい表現に結びつけ、大胆な表現に取り組んでゆく。


 2007年4月に『モノ学・感覚価値研究[第1号]』が発刊されました。単行本2冊分は優にあるボリュームでしたが、一気に読ませていただきました。

 

 発刊の辞である「モノ学への挑戦」において、鎌田さんは、「最新のトヨタやホンダの自動車づくりから伝統的な京都の西陣織まで、どのようなものづくりにおいても、すぐれたものはそれ自体の『もの』の力によって『もののあはれ』を喚起せしめる。きれい、すごい、おみごと、と思わせる。『もの』は常に『こころ』にはたらきかけ、ゆさぶり、うごかし、『たましい』まで発動させるのだ」と高らかに宣言されています。ちょっとモノモノしい印象さえ与えるくらいに。(笑)

 

 巻頭論文の「モノ学の構築」も鎌田さんが書かれていますが、その中の「孔」の問題が、わたしには特に面白かったです。モノには次元があり、一次元(点)、二次元(平面)、三次元(立体)、四次元あるいは高次元・異次元(スピリチュアル)などの各次元がある。

 

 そして、鎌田さんによれば、これらの次元を繋ぐ回路が「孔」なのであると。銀河鉄道のようなものに乗れば、その次元回路である「孔」から霊界に入っていったり、現実世界に戻ってきたりする。そのような次元トンネルがあることを宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』で示しているのであり、その次元トンネルからまた別の次元世界に至る。

 

 そして、ヘルマン・ヘッセは『荒野のおおかみ』の中で、そうした「孔」を目撃してしまう主人公ハリー・ハラーのような人間を「一次元よけいに持っている人間」と表現しました。

 

 これを読み、わたしは古今東西で一番リスペクトしている人物を思い浮かべました。その名も、孔子(!)という人です。彼が開いた儒教ほど誤解されている宗教もないと思いますが、葬祭を司るシャーマンの母親から生まれた孔子は異界の神々や死者の霊ともダイレクトに交流できるスピリチュアルの巨人であったと、わたしは信じています。

 

 「孔」と「礼」の字は似ていますが、孔子が重視した「礼」とは、土地の神々や妖怪の類を霊的に封じ込めるサイキック・テクノロジーでもあったのです。その孔子は、ジョバンニやハリー・ハラーの大先達として、次元をよけいに持った人物だったに違いありません。


 そして、このたびの第4号では、巻頭の「『モノ学の冒険』次なる地平へ」で、鎌田さんは設立当初の5つの方向性を再度確認した上で、「われら『モノ学冒険団』は、次なる地平へ、いや、次なる水平線へと漕ぎ出すことになる。嗚呼、モノ学の大地と海は、ユーラシア大陸よりも、太平洋よりも、広いぜよ!」と、なぜか龍馬の口調で宣言し、最後に「物知りはモノの何をば知れるとぞ ものとふ者のもののあはれよ」と短歌で締め括ります。

 

 いやあ鎌田先生、またしてもモノモノしいぞよ!(笑) しかし、学者という立場を超えたテンションと志の高さには感動してしまいます。


 それから、この第4号で特筆すべきは、新進気鋭の美学研究家である秋丸知貴さんが堂々のデビューを果たしたことです。秋丸さんは、社団法人日本図案家協会の事務局長であり、日図デザイン博物館学芸員でもあります。秋丸さんの書かれた論文のタイトルは、「抽象絵画と近代技術~ヴァルター・ベンヤミンの『アウラ』概念を手掛かりに」というものです。

 

 ヴァルター・ベンヤミンは、ナチスの迫害により死亡したユダヤ人思想家です。彼が唱えた「アウラ」という概念は、「同一の時間軸・空間軸上に存在する、主体と客体の間に成立する、相互作用による変化の痕跡、および相互に宿るその時間的蓄積の総体」だそうです。

 

 また、その主体と客体が、同一の時空間上で、現存的・直接的かつ集中的・五感的に相互作用している関係を、「アウラ的関係」、その主体の客体に対する知覚を、「アウラ的知覚」と定義できるとか。

 

 なんだか難しいですが、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』とか、ヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史』とか、マーシャル・マクルーハンの『メディア論』など、わたしの愛読書の数々が引用され、興味深く読めました。

 

 この論文の冒頭には、「なぜ、西洋美術において、19世紀後半以後、『ルネサンス的リアリズム』は造形表現の主流から凋落し、『絵画の抽象化』が新たな本流を形成したのだろうか?」という問題提起がなされています。そして、「アウラの凋落」すなわち「脱アウラ的知覚」が、「近代絵画」における「絵画の抽象化」に重要な影響を与えていると指摘しています。

 

 「脱アウラ的知覚」は、各種の「近代技術」により、「大都市群集」のみならず、社会生活のさまざまな局面で頻出します。例として、「百貨店」「博覧会」「蒸気鉄道」「写真」「映画」などが挙げられています。

 

 映画はまた「パノラマ的知覚」を生み、それは、20世紀に一般化する、「テレビ」「ビデオ」「インターネット」などの各種の「映像機器」でも同じように成立します。また、「ラジオ」「レコード」「テープレコーダー」「CD」などの各種の「音響機器」を含む、一方向的・自動再生的な「視聴覚機械」でも、相互交流の欠如ゆえに「脱アウラ的知覚」が発生するというのです。テクノロジーが人間の知覚をどのように変化させるか、つまり「こころ」にどのような影響を与えるのか、秋丸さんの視点は非常に示唆に富んでいると思います。


 ちょうど、『モノ学・感覚価値研究[第4号]』が届いたとき、わたしは『澁澤龍彦 日本作家論集成(上)』(河出文庫)を読んでいたところでした。その中に、江戸川乱歩を論じた「乱歩文学の本質」という秀逸なエッセイがありました。乱歩は、「鏡」や「レンズ」や「遠眼鏡」や「幻燈機械」といったものに、幼少の頃から多大な関心を抱いていたそうです。これは「覗き」の趣味と関係があり、名作とされている『鏡地獄』や『湖畔亭事件』などは、そうした傾向の頂点を示す作品だとか。そして、『鏡地獄』の主人公の趣味は、そのまま乱歩自身の趣味だというのです。

 

 乱歩は、かつて明治の末期に名古屋で開かれた博覧会の余興の見世物を真似て、自室の四畳半いっぱいに、パノラマ仕掛けで日露戦争の旅順口の海戦の場面をつくり、近所の子どもたちに見せて喜んだと、『探偵小説四十年』に書いてあります。そして、かの稲垣足穂と「旅順海戦館」の思い出を語り合い、大いに意気投合したのだそうです。

 

 たしかに、『鏡地獄』はもちろん、『押絵と旅する男』や『パノラマ島奇談』などの奇妙な作品群には、乱歩の「覗き」趣味が見られるようです。インターネットやCDなどのデジタル・メディアもいいですが、わたしは乱歩と同じくレンズや遠眼鏡などのアナログ・メディアにこよなく心惹かれます。ベンヤミンの「アウラ」概念を用いて、乱歩を読み解いてみるのも面白いかも。

 

 ともあれ、秋丸知貴さんの今後の活躍に大いに期待したいと思います。