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正義論/自由論』

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No.0078

 

 『正義論/自由論』土屋恵一郎著(岩波書店)を読みました。

 

 本書のサブタイトルは、「無縁社会日本の正義」となっています。そう、「無縁社会」で検索した結果、存在を知った本なのです。本書が刊行されたのは、1996年です。ソ連の崩壊によって、米ソの冷戦が終結しました。イデオロギー対立が消えて、文化・宗教・民族の対立が先鋭化しました。

 

 著者は、「現代社会は多様な対立と矛盾を許容しつつ、統一を維持できるのだろうか」と考えます。そして、「自由の限界点」や「共同体と市民社会との境界」などの問題に答えたアメリカの政治哲学者ジョン・ロールズの『正義論』を読解します。共同体から無縁社会へと漂流する日本の「正義」と「自由」の方向性を見極めようとした本です。著者は、まず個人と共同体について、次のように述べます。

 

 「ばらばらの個人の集まりと見えても、無数の共同体が生み出されて、それが、現実の文化や行動の母体となっている。インターネット・カフェや、ディスコ、あるいは、ヴォランティア運動や、新興宗教もふくめて、そこには、マイナーな共同体が生まれている」

 

 たとえば、第二次世界大戦が終わった1945年のパリには、「ドゥマゴ」というカフェがありました。サルトルとボーヴォワールがそこに陣取って、さまざまな会話をしました。彼らに会いに多くの人々がやって来て、カフェは実存主義の砦になりました。カフェに集う人々は、過去も未来も持たない、人生の根無し草(デラシネ)がほとんどでした。人間関係のしがらみが存在しないがゆえに、隣り合わせた者、近くに来た者すべてを受け入れることができたのです。

 

 ドイツの政治哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、『公共性の構造転換』という著書で、カフェというものが、他のサロンや読書クラブなどとともに近代の公共的世界を形成してきたと書いています。


 また著者は、無縁社会としての日本の源流を、中世の「連歌」の場所に求めます。13世紀の日本には、花の下連歌というものがありました。そこでは、乞食のような姿で町を歩く僧、すなわち念仏聖たちが寺の枝垂れ櫻のもとに、貴賎をとわずに多くの人々を集めて、連歌の会を催しました。

 

 日本文化において、桜は、怨霊や御霊がその下に眠るところでした。そして、桜の花びらの降る姿は、その怨霊の怒りと見られました。桜の樹とは、冥界と現世を結ぶところだったのです。著者は、桜の下で開かれる連歌会について次のように書いています。

 

 「この花の下連歌では、参加者は、それぞれの身分や名前を隠すことが、規則になっていた。高貴の身分の者や、名だたる歌人も、その身分を隠し、名前を隠して、つまり『無縁』の人として、『忍びて』連歌を聞き、ある場所には、自ら参加している」

 

 興味深いことに、その忍び姿のなかには、当時の上皇の姿もあったそうです。連歌の場所では、念仏聖も上皇も、同じ無縁の人として連歌に参加したのです。当然ながら、無礼講でした。共同体論者とされる人々がいます。彼らにとって、人間とは物語の統一性を生きる者です。その物語の根拠に、家族や都市、国家があらわれるというのです。著者は述べます。

 

 「連歌とカフェの人間たちは、むしろ、その物語の統一性を解体して、複数の物語が『飛花落葉』の観念もなく、モザイク状に組み合わされている世界を生きるのだ」

 

 ハーバーマスは、いつでも、人工の共同体は惰性化してしまうといいます。惰性化してしまえば、カフェは、ただの娯楽産業であり、そこに集まる人間の群れは、意志を失った群集でしかありません。メディアは、その群集を組織して、ただ「無縁」を消費するだけです。


 著者によれば、近代の日本人にとって「無縁」世界への願望は限りなくあったそうで、次のように述べます。

 

 「軍隊や会社組織は、もっとも徹底した『無縁』の世界である。『一味神水』して、集団を構成して、エネルギーを高める。家族もない、個人もない、ただ集団のなかで、まっしぐらに目的に向かうことになる」

 

 「無縁」の裏側には、強烈な集団主義がいつでもひかえており、そこに「自由」や「平等」といった観念がなければ、「無縁」はそのまま「無個性」の仮面の集団になってしまいます。「無縁」世界は社会のエネルギーを効率的に組織する基盤になるのです。

 

 そこで必要なのは、会社的な無縁を超えてゆく、新しい共同体の登場です。「社縁」というものを相対化して、その外の世界に、「無縁」の公共圏を構成していくことが必要であると、著者は主張するのです。そして現実には、この外の「無縁」は日本社会の中ではすでに形成されており、その代表例として、なんと「釣りバカ日誌」をあげます。ハマちゃんとスーさんの会社の中での身分関係は、会社の外での「釣り」の世界では通用せず、そこは無縁化した世界であるというのです。

 

 ここまで読んで、わたしは著者が「無縁」という言葉を、いわゆる「平等」という意味で使っていることにようやく気づきました。一連のNHKの番組などで現在問題となっている「無縁」とは明らかに意味合いが違います。著者のいう「無縁」とは固定化された身分関係や人間関係の「しがらみ」から自由な関係、すなわち「平等」を指しているのです。


 本書は、他にもピーター・ドラッカーが著書『ポスト資本主義社会』で述べた「乳母国家」批判など、なかなか興味深い論考もあります。

 

 「乳母国家」とは、個人の私的な生活の規律にまで口を出す国家のことです。ドラッカーは、「金は出すが、口は出さない」国家を理想としていたのです。また、本書の最後の「むすびにかえて」では、わたしたちの思考のなかでは、精神の態度として、つねに「無縁」の状態を保っていなければならないとして、著者は次のように述べます。

 

 「そこにおいて、自分の自由とともに他者の自由を認める精神が生まれる。自分が獲得した可能性は、他者にも当然なければならない、とする精神の構えが生まれる、つまり、本当の意味での『友愛』という感情を、私たちはもつことができるのだ」

 

 なんと、「無縁」が「友愛」に通じていたとは! びっくり仰天ですが、やはりこの著者は「無縁」を肯定的な意味で使っているのですね。つまり、本書における「無縁」とは、「友愛」につながる「平等」のことである。

 

 ということで、次は「平等」についての本を読むことにします。