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澁澤龍彦 書評集成』

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No.0045

 

 澁澤龍彦 書評集成』澁澤龍彦著(河出文庫)を読みました。

 

 天才シブサワが、縦横無尽にさまざまな本を読み、次々と感想を記してゆく。

 それだけで贅沢な気分になれます。 なにしろ、あの澁澤龍彦が、宮澤賢治を読み、谷崎潤一郎を読み、三島由紀夫を読み、泉鏡花や夢野久作や種村季弘を読むのです。 さらには、フーリエやバタイユやミシェル・フーコーやコリン・ウィルソンを読むのです。

 これが贅沢と言わずして、何が贅沢でしょうか。

 本書のいたるところで、龍彦節が炸裂します。

 たとえば、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の書評では、賢治の作品の中で「雨ニモ負ケズ」式のイデオロギーが露骨にあらわれているものは好まないと告白した後、『銀河鉄道』にも賢治の被害妄想コンプレックスのようなものが看て取れるが、自分はこの作品を「一つのメルヘンとして、限りなく愛している」などとシャーシャーと言ってのけます。

 そして、次のように述べるのです。

 「『銀河鉄道』一篇のなかに思うさまばらまかれているものは、青白い光や、紫色の石や、透明な空気などといった、カチっとした美しい鉱物的なイメージの数々である。これは賢治の詩精神の凝った結晶ともいうべきもので、賢治の変に宗教的なヒューマンな敗北意識よりも、こんな無機物的なイメージの方が、私にはよっぽど親しみやすく嬉しいのだ。」

 澁澤は、また、賢治の童話が用いるオノマトペの面白さに注目します。

 「山がうるうるもりあがって」とか、「そこらはばしゃばしゃ暗くなり」とか、「どってこどってこ変な音楽をやっていました」などといった奇妙な形容詞が澁澤の記憶に深く刻みつけられ、たちどころに五つも十も思い出せるというのです。

 澁澤は、「おそらく、賢治文学に思想性や理想主義を読み取ろうとする人たちにとっては、こんな私の味わい方は、かなり変則的に見えるかもしれない。が、表面にあらわれた童話の思想なんて、私にはどうでもいいような気がする」と述べています。

 『涙は世界で一番小さな海』で、まさに賢治の童話から思想や理想を読み取ろうと試みた自分としては、「何を言ってやがる、童話を甘く見やがって!」と思わないこともないのですが、なにしろあの澁澤龍彦が言うのですから、「まあ、仕方ないか」と情けなくも腰砕けになってしまいます。

 しかしながら、澁澤は賢治のことを軽んじているわけではありません。

 「博物学や地質学や天文学の術語を作品中に好んで用い、みずからも太古の獣の骨などを発掘したことのある賢治」について、「どこか北方的な汎神論者のおもかげがある」などと評しています。

 それにしても、澁澤龍彦の毒舌ぶりといったら!正直いって、こんなに口の悪い人だとは思っていませんでした。その毒舌ぶりは、若い書き手に容赦なく向けられます。

 澁澤の著作を好意的に論じた磯田光一著『殉教の美学』に対して、「わたしの著書に対する理解と好意にあふれた批評もあって、ありがたき仕合せと感激いたしておりますが、それにしても、わたしなんぞのような生まれつきの風来坊を戦中派世代のなかに無理に割りつける必要は毫もなかったのです」と皮肉ったあと、「磯田光一様。あなたのような、物分りのよい、お行儀のよい、優等生的評論家の御本をよむと、つい、いらいらしてしまって、皮肉の一つも言いたくなります。お気にさわったら、ごめんなさい」といった具合に完全に喧嘩を売っているのです。

 今をときめく塩野七生著『ルネサンスの女たち』については、ルネサンス的人間に対する著者の溢れるばかりの共感が書物に一貫していると高く評価したにもかかわらず、最後に著者の叙述のスタイルに難癖をつけます。そして、「鷗外風の史伝のスタイルは望むべくもあるまいが、少なくとも幼稚なアフォリズムめいた文章はあらずもがなであろう。『自覚した偽善は芸術的に美しい』などというのは、私たちの失笑を買うだけだということを、著者は十分自覚してほしい」などと言い放つのです。

 お~、こわ~。天下の磯田光一も塩野七生も、これでは形無しですね。

 当時の澁澤龍彦という批評家がいかにアマノジャクで、いかに若手にとって怖い存在であったかがよくわかります。

 特に、誤訳、悪訳、欠陥翻訳に関わった翻訳者への敵意はただごとではありませんでした。よほど憎んでいたのでしょう。その攻撃性は意外でしたが、エッセイスト、そして書評家としての澁澤龍彦は、やはり天才だと思います。

 わたしも新聞や雑誌などで拙い書評もどきに雑文を書いているのでよくわかるのですが、彼の書評はまことに独特です。 くどくどと内容のダイジェストなど紹介せず、自分が気に入った箇所を具体的に列挙するのです。それが、そのまま良質の書評となっている。 そして、最後にとんでもなく気のきいた一文を持ってくるのです。

 たとえば、三島由紀夫著『午後の曳航』書評の最後に「蛇足をつけ加えれば、この小説は傑作である。」との一文を置く。

 また、久野昭著『神と悪魔~実存倫理の視界』の書評で、著者を圧倒的に上回るオカルティズムの知識をさんざん示したあげく、「もともと魔術の薀蓄を披瀝したくて、筆を取ったのである。」の一文で締めくくる。

 いやあ、もう、たまりませんね。 こういう末文をさらりと書く人こそが、本当に「文才」がある人と呼ばれるのでしょう。 わたしにとって理想のエッセイストとは、小林秀雄と澁澤龍彦の二人です。 ともに、色合いは違いますが、剣の達人ならぬペンの達人でした。

 お互いが、お互いのことをどのように思い、どう評価していたか、とても興味があります。

 わたしは全集も持ってはいますが、ここのところ再編集された澁澤龍彦のコンパクトな評論集成が河出文庫から続々と出ていますので、これからしばらくはドラコニア・エッセイの森を散歩してみたいと思います。