No.0010 歴史・文明・文化 『「百科全書」と世界図絵』 鷲見洋一著(岩波書店)

2010.03.05

 わたしは、中学生の頃に渡部昇一さんや紀田順一郎さんの読書論を読んで、百科事典をはじめとしたレファレンス類の魅力に取りつかれ、コレクションをはじめました。

 「わが青春の書店」に出てきた金榮堂や神保町の古書店などで買いまくりました。

 いま、実家の書庫には『ブリタニカ』や『ラルース』の初版をはじめ、『ブロックハウス』『チェンバース』『アメリカーナ』など世界中の百科事典が集められています。

 特に、日本のものは『和漢三才図絵』『嬉遊笑覧』『厚生新編』『日本社会事彙』から『古事類苑』『廣文庫』、そして現代のものまでほとんど揃っています。

 平凡社の『世界大百科事典』などは、初版以来のあらゆる版を神保町で揃えました。 平凡社以外の百科事典もたいていは揃えていますが、中でもお気に入りは、小学館の『万有百科大事典』です。各巻が「日本歴史」「哲学」「文学」といったふうに専門事典として編集されているので、使いやすい。この事典には非常にお世話になりました。

 専門事典では、他に、吉田東伍の『大日本地名辞書』とか、諸橋徹次の『大漢和辞典』とか、吉川弘文館の『国史大事典』、小学館の『日本国語大辞典』、角川の『日本地名大辞典』など、全部で数十巻に及ぶものもカバーしていました。

 いつも、それらの事典類をながめながら、「古今東西の全知識を自分のものにしたい!」という大それた、というより罰当たりな妄想を抱いている少年でしたね。はい。

 そんな、かつての百科事典少年が泣いて喜ぶ本が刊行されました。 『「百科全書」と世界図絵』(岩波書店)です。

 著者の鷲見洋一氏は、18世紀フランス文学・思想・歴史が専門で、現在は中央大学人文学部教授、慶應義塾大学名誉教授です。

 本書のカバーの見返しには、次のように書かれています。

「『百科全書』、それは世界と量り合うことを願った一冊の書物、十八世紀の世界図絵であった。境界を越え限界を越えて溢れ出る知の膨大な収集と集積、今日の人工知能を予言するかのような、項目の分類・整理と綿密なネットワークづくり・・・そこに世界像を更新しようとする制作者の生涯を賭した情熱を読む。」

 『百科全書』とは百科事典のルーツです。

 18世紀フランスで、啓蒙思想家のディドロとダランベールらの「百科全書派」が中心となって編集した「知」のパノラマですね。

 この『百科全書』成立の波瀾に満ちたドラマを追うのですが、そこには過剰へと向かう人間性の不思議、そして神に代わって世界を一望しようとする理性の夢がありました。

 「世界図絵」というのは、もともとは絵入りの子ども向け百科事典を意味していましたが、その後、図鑑へと発展しました。でも、この本では、世界を一枚の絵で表現する営みとしています。

 たとえば、黒澤明の名作「七人の侍」には、小川のほとりの水車が燃える有名なシーンが出てきますが、著者はこの場面について次のように述べます。

 「それは『世界図絵』ということではないだろうか。短いながら、いやむしろその短さの故に、ここには凝縮した形で全世界が封じ込められているように思われてならない。燃えさかる小屋、水車の回る小川、すなわち、火があり、水がある。それだけでもう、世界の二大構成要素が揃っていると言えないか。」

 わたしの最近の著作には「火と水の謎」というテーマがありましたので、非常に興味深く読みました。その他、パティニールの「世界風景図」とか、ブリューゲルの「イカロスの墜落」などが代表的な「世界図絵」として紹介されています。

 あと、フランス社会とプライバシーについて触れた部分が面白かったです。

 「隣人祭り」がフランスで生まれた背景には行過ぎたプライバシー重視の文化があったように漠然と思っていたのですが、著者は「そもそも十八世紀まで、フランス社会にプライヴァシーなどというものは存在しなかったと言ってよい」と断言するのです。

 17~18世紀に書かれた芝居では、居間や寝室に、身内だけでなく見知らぬ客までもが平然と出入りしている描写が出てきます。

 著者は、「家族とは奉公人を含む巨大な雑居集団であり、夜は全員が同じ部屋、時には同じベッドで眠ることも珍しくなかった。そうした『公性』の支配の目をかすめるようにして、少しずつ『私性』の浸透が認められ始める。十八世紀に入り、廊下というものが間取りに仕切りをもたらし、各部屋が独立して親密な空間を作りだす」と書いています。

 おそらく、かつては「プライバシー」という観念のなかったフランスに「プライバシー」が浸透するとき、反動として過剰に浸透しすぎてしまった。その結果、孤独死などの問題が浮かび上がり、「隣人祭り」が誕生した。こんなところではないでしょうか。

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